抑えきれない気持ちがあるのなら、月を見て偲べば良い
表明すること。例えば有名な誰かが亡くなった時、何かを経験した時、人はSNSに、人生における大きな影響を長文で書き記す。
「いや、それ一人でやれば良くないか?」
と、思ってしまう僕は性格が悪いんだろう。中にはそこまでの感動や影響を受けてもないくせに(そういうのって作品や人柄から結構わかりますよ)軽々に載せやがる輩もいる。「今日は尊敬する〜さんとワークショップでした。光栄で、実りある時間でした!」「〜さんの作品中学の時聴いてました、ご冥福をお祈りします。」なんてのは誰かに表明すればするだけ薄く見える。タグなんかつけたらなおさら。それが利己的な心からなら、僕はあなたと仲良くなりたくはない。
抑えきれない気持ちがあるのなら、月を見て偲べば良い。
あなたのその本当の気持ちは決して、SNSの一投稿に集約されるような程度のものではないでしょう?
体験や記憶は感覚として忘れていくから仕方ないか。吐き出しきれない気持ちを呑み込むのがSNSか。誰かより自分の方がそこに価値を見出したと言わないと自分が小さくなってしまうことが怖いか。
全部、気持ちはわかる。
でもそれ僕はかっこよくないと思います。(言った.....!!!)
偏屈な音楽家は、今日もそうやってSNSを閉じるんです。こんな事を、SNSを使い始めた10年前くらいからずっと思っています。対人のコミュニケーションより気軽で個人が見え、そこには利己や利他もなく、作品性を強くすることもできたり、ギミックや凝縮した思考を載せる懐があったからこそ、SNSはその人の部屋みたいだなと認識していました。
もうそんな場所はどこにもないんでしょうね。
そんな、人の感覚や思考を少しでも知りたいと思う気持ちを、上辺の言葉が殺して廻っている。
タイムラインには、今はもう居ない誰かの屍がそこかしこに転がっている。
息苦しくなって窓を開けたら、風と月が何も言わないでそこにあった。こうやって僕の夜は長く長くなっていくのだ。
(それぞれにSNSの使い方やスタンスや事情が違うことも承知しています。その上で、故人や誰かが大切にした場所を利己的手段として使う人間が現れている気がするので思ったことを綴りました。嫌な気持ちになったのなら悪しからず。誰かを傷つけるつもりはないです。)
2024.03.09