28年間の生き様を3万字で。
この話は『学校大好きな中学校英語教師が、言語学者として生きるフィールドをグローバルにお引越しした』話です。
自己紹介
こんにちは😊
「KAIHO(解放)」という名前で会社を経営しているイノウエマサトと申します。28歳アメリカ在住の言語起業家です。会社のビジョンは「言語教育を通して人々の可能性を解放する」です。これまで、たくさんの失敗、挫折を経験してきました。今回は、自分の人生を振り返り、その経験を共有するために自分史ノートを書きたいと思います。
読者へのメッセージ
僕のnoteを訪れてくださりありがとうございます!!
このノートを読んでいただきたいのは、以下のような方々です。
・仕事も勉強も趣味も家族も人間関係も全部全力でやりたい方。
・狭い世界からの解放を心から願っている方。
・自分の可能性を広げ、地球で生きたいと願っている方。
・自分の命を燃やして、死ぬときに「最高だったー!」と叫びたい方。
このノートを読んでくださるあなたの人生に少しでも勇気や希望を与えることができれば幸いです🫶
幼少期
・母との別れ
少し暗めの人生スタートになっているので、本当に読みたい方だけ読んでくださいっ!僕は1996年8月20日、大阪で生まれました。家族は、父と母、そして3つ上の兄がいます。父親は高校卒業後、祖父が創業した野菜の卸売業を引き継ぎ、大阪の中央市場で毎朝4時から働き、昼になったら祖父と共に帰宅して休息を取り、午後から再び仕事に戻り、夕方に帰宅するという生活をしていました。物心ついた頃から、父はずっとこの生活をしていました(すごい)。
幼少期の記憶は正直あまり良いものではありません。幼稚園生の頃、両親が離婚し父親の家庭で育つことになりました。当時の父は非常に怒りっぽく、いわゆる「難波のおとん」という感じで、母親と頻繁に怒鳴り合いの喧嘩をしていました。記憶が定かではありませんが、ビーズでできた硬い枕を母に向かって投げつけて怒っていた場面や、泣きながらマンションのドアを思い切り閉めて出て行く母の後ろ姿を今でも鮮明に覚えています。何度も何度もこの時の映像がフラッシュバックして強く記憶に残っています。
・母の愛
母親はとにかく優しく自分に接してくれた記憶があります。基本的に自分のことは全肯定で認めてくれました。僕はかなりワガママだったと思うのですが、深いあいで包み込んでくれていました。夜中にめっちゃお腹が空いて、絶対食べてはいけないポテトチップスをどうしても食べたかったのでお母さんにお願いすると食べさせてくれたのを覚えています(いや、それは食べるな。寝ろ。)そんなお母さんが怒鳴られてる姿や喧嘩してる姿を見るのが嫌で嫌で仕方なかったです。
・こべりついた呪い
この経験が自分の人生のスタートの記憶となり、この年になって振り返ると不安定な状態から人生が始まったと感じています。当時の父親は怒りの沸点が低く、非常に怖かった記憶があります。あ母さんが出ていくのをただ無力に立ち尽くして見ていました。これが4歳か5歳だった頃。親の喧嘩を止める勇気がなく、「自分は大切な人を守れなかった」という認知が強く深く刻まれました。
・祖父母の愛
父親の実家に移り住んだ時に祖父母が非常にいい関わりをしてくれました。多くの愛情を受けました。祖母は物事をストレートに伝えるタイプで、僕が拗ねていたら「怒ってるんやったらどついてみろ」とよくどぎつい言葉で叱ってくれましたが、そのすべてに愛がありました。祖父は私の行動を常に褒め「お前はナンバーワンだ」と言ってくれたことが自己肯定感を高める大きな要因となりました。この言葉に何度救われただろう。。。祖父は中学校卒業後、独立して野菜の卸業を始め、大阪に大きな家を買い、僕たちを育ててくれました。彼は私が目指す経営者像の一人です。
父親についても言及します。現在の父は思いやりがあり、人の役に立つために動き回るスーパーマンです。当時は怒りっぽかったですが、週末には必ずどこかに連れて行って遊ばせてくれました。言葉の扱い方が今でもどうにかならんかなと思う時がありますが(笑)、僕たちに好きなことをさせてくれ、その応援を全力でしてくれました。母親は離婚後も週に一度会う時間を設けてくれ、一緒にご飯を食べたりテレビを見たりしました。もっと一緒にいたいという気持ちがありましたが、それを直接言うのは恥ずかしく、毎回別れる時は寂しい思いをしていました。
小学生時代
・大暴れ(レベル1
小学生になった僕はよく言えば活発で、悪く言えば手のかかる児童でした。授業中にじっとしていられず、動き回ったり大声を出したりしていました。今振り返ると、誰かの愛情や関心を求める行動だったのだと思います。ただ、人との関わりが大好きでたくさんの友達を作りました。活発な子たちと遊ぶのが大好きで友達といる時間が何よりも楽しかった記憶があります。
その一方で、家に帰っても誰もいない日々は言葉にできない寂しさがありました。小学校3年生ぐらいまでは家に帰ってからほぼ毎日泣きながらケーブルテレビでアニメをみてなんとか寂しさを紛らわせていました。
・優しい兄
兄の影響で小学生の頃は絵を描くのが好きでした。兄は落ち着いた性格で、音楽や芸術のセンスがあり、漫画部に入っていて絵が非常に上手でした。僕も兄の影響で絵を描くようになりましたが、兄のように上手に描けず、イライラしていたのを覚えています。それでも兄は優しく書き方を教えてくれたり、励ましてくれました。兄がなぜこんなに優しく育ったのは今でも不思議ですが、彼のおかげで多くを学びました。
兄に関するエピソードとして、小学校低学年の頃、遊具で遊んでいる時に上級生に絡まれたことがありました。その時、兄が駆けつけて助けてくれました。普段は優しい兄が、怒りの顔で上級生を追い払ってくれたのを今でも鮮明に覚えています(強い)。
・ソフトボールとの出会い
高学年になっても相変わらず手のかかる生徒で、怒りの沸点が低く、よく喧嘩をしていました。5年生の時には喧嘩が多すぎて親が学校に呼ばれました。感情の表現方法がわからず、暴れることでしか表現できなかったのです。喧嘩の原因は、誰かが馬鹿にされることや自分が馬鹿にされることでした。自分や友達がからかわれると制御できず、暴力で対処していました。
教頭先生が僕の席の後ろにずっと立って見守ってくれてたりもしました。ありがとう。しかし、ソフトボールのクラブ活動に打ち込むことで、少しずつ他者とうまく関わる方法を学びました。また、熱中できるものが見つかり、ピッチャーとして大阪選抜に選ばれたり、大会で何回も優勝してMVPにもなりました。仲間と一緒に喜びや悔しさを共有することで、チームワークの大切さを学びました。
・父の愛
また、父親の存在がとても大きかったです。僕が出る試合はいつも見に来てくれて、差し入れをチームのみんなに買ってきてくれました。今思うと、あんなに仕事が大変だったのに、寝る間も惜しんでよく見に来てくれたなと思います。父親は遊びやスポーツに本気で向かわせてくれ、僕も一生懸命やれたのはそのおかげです。自分に子供ができたら、父親のように関わりたいと思っています。ただし、怒鳴ったり叩いたりしない方法で(笑)
・いい友達との出会い
バスケットボールも学校のクラブ活動としてやっていました。仲良しの友達がみんなバスケをやっていたので始めました。バスケの友達とは今でも会うほど仲良しで、ドラクエや当時流行っていたオンラインゲームを一緒に楽しんでいました。バスケの友達から「マサトは熱中したことに対して誰よりも努力して早く上手くなるよね」と言われた言葉が印象に残っています。素敵な友達に囲まれて、スポーツに打ち込む毎日でした。
ただ、幼稚園の時に体験した辛い出来事の記憶からはまだ解放されておらず、1人になるとその思い出がよみがえり、寂しさを感じる小学校生活でした。
中学生時代
・大暴れ(レベル2
中学校時代、人生が大きく変わる経験をしました。中学1年生の時は相変わらず学校で大暴れしていました。授業中に喧嘩をしたり、先生に暴言を吐いたり、教卓を蹴り飛ばすこともありました。こんなこと絶対にやったらだめです💦。大人になってから教師になったからこそ、当時の先生たちがどれだけ大変だったかを痛感します。本当に申し訳なかったと感じています。
当時の僕は、ただ「やれ」と言ったり「覚えろ」と言ったりするスタイルの教育に納得がいかず、なぜそれが必要なのかを素直に知りたかったのです。先生の権力や圧力に反発し、自分が価値を感じられない時間を過ごすことに強い嫌悪感を抱いていました。そのタイミングでいつも大暴れしてました。
小学校でのスポーツ経験から、人を思いやる気持ちや相手の立場を考えることが少しずつできるようになっていました。それでも自分や友達が馬鹿にされる時や、弱い者いじめを目の当たりにする時に沸点が最高潮に達し、大暴れしてしまってました。
・恩師との出会い
そんな中、僕の人生に大きな影響を与える恩師と出会いました。中学2年生の時の担任の先生で、新任の数学教師でした。彼は僕の怒る理由は間違っていないと認めてくれ、その言葉に救われました。その後、彼は僕に暴力ではなく口で解決する方法を教えてくれました。何度も何度も「今のやり方では誰もついてこない」と言い聞かせてくれました。
先生も相当大変だった中でそんな声かけをしてくれました。まあまあ荒れてるいわゆる困難校の学校で、その先生のクラスの手紙や掲示物はよくビリビリに破かれて教室中に散乱していました。めっちゃ記憶に残ってるのですが「もう死にたい」って涙目で掃除してる先生を見たことがあります。あの日から、自分もこの人の言うことはちゃんと聞こうとより思いました。
彼だけでなく、他の先生たちも同様に優しく僕に接してくれました。おそらく職員会議で「こいつを良い方向に導こう」という流れがあったのだと思います。中学1年生の時は学級委員長に立候補し、弱い立場の人を守りたいという気持ちからクラス作りをしていました。こうした役割を与えられることで、自分の学校生活に対する意識も変わっていきました。
・バスケ部を4ヶ月で退部
部活はバスケットボール部に入っていましたが、専門の指導者がいなかったり、先輩たちがチンピラみたいな人しかおらずで地獄のようでした。僕自身の体力もなく、走るメニューが嫌いで、夏を越えてから辞めました。本当はすぐ辞めたかったのですが、夏を越えずにやめるのはダサい(練習がキツイから)と思い、夏休み明けに辞めました。しかし、自分でバスケットボールの練習を続け、公園や体育館でメニューを考えて練習しました。
通ってた中学校では99%の人は部活に入っており、部活を辞めるということは学校社会から外れるような意味があったように感じます。先生にも何度も何度も止められました。 ただ僕は自分がバスケットを上手になりたい、好きな人たちとバスケットがしたいと言う気持ちがあったのでやめました。この頃に人生で初めて「みんなが歩んでる道から外れる」経験をしました。
・180cmの中学生、美術部に入部
ちなみに絵を描くのが好きだったので、半強制的に美術部に入部しました。
同期は僕しかおらず、優しいおばあちゃんの顧問とBLやアニメが大好きな先輩後輩の女の子20人ぐらいと絵を描いてました。カオス。
・成長できる場所を求めて
バスケ部を辞めた後、何をしていたかというと、毎日自転車で20〜30分かけて移動し、東大阪にある子供たちのために無料開放されている体育館「フープ7」という場所に通っていました。この場所でひたすら自分で練習メニューを考えて練習し、体育館にいる他の中学生や高校生、大人たちに声をかけて一緒に練習させてもらいました。この経験がとにかく楽しくて、夢中で取り組んでいました。自分より上手な人しかいない環境の中で、死ぬ気で食らいついていく。そしてまた、30分自転車をこいで自分の家に帰る。そんな生活をしている中で、自分の世界が広がっていく感覚やスポーツを通して素敵な出会いができることに感動していました。チャリでフープ7に行く時は、いつも最高に興奮していたし、帰り道も大声で歌を歌うくらい上機嫌で帰っていたのを覚えています(今振り返ってもさいっこうに楽しかったなぁ)
また、高校は強豪校で練習したいと思っていたので大阪の校区内の高校に全部に電話をかけて、練習に参加させてくださいと連絡をしました。美術部ですが身長180cmあり、体力測定Aでした。真面目に頑張れます。と営業してました。この行動が中学校で問題となり、勝手に変なことすんなと言ってくる先生とお前の行動力はすごいと言ってくれる先生がおり、褒めてくれる先生の言葉だけ受け取りました(都合いいw)。結果8校ぐらい高校を回り練習に参加させてもらい、ビシバシしごいてもらいました。中学のバスケ部を辞めてマジで良かったなと思います。もちろん同級生の部活の輪に入れないのは寂しかったですが、英断だったと思います。
・人間になっていく
中学高学年になると、さらに自分の人生が変わってきました。口酸っぱく言われていた暴力反対、口で問題があったら解決するといったことも少しずつできるようになり、いじめをする子に対して自分の意見を述べることができるようになりました。先生たちはそれをとても褒めてくれました。2年生の時も学級代表をやらせてもらい、みんなの前に立つ機会が多かったです。この時、助けてくれた先生たちには心から感謝しています。この時、八百屋さんと学校の先生以外の職業を知らなかった僕は、学校の先生になりたいと思いました(単純)。
・本気で合唱するでかい中学生
中学2年生の頃、合唱コンクールの記憶が強く残っています。僕は歌が上手なわけではないし、音楽に特別な才能があるわけでもありませんが、指揮者をやることになりました。理由は誰も指揮者をやりたがらなかったので、僕が手を挙げました。どうせやるからには優勝しようと、大好きな担任の先生が熱意を持って言ってくれたので、本気で達成しようと思いました。音楽の成績は10段階評価で5だったのですが、夏休みの間に何度も音楽室に通い、音楽の先生に指揮の練習を教わりました。また、楽譜の読み方もわからなかったので、音楽部の女子に全部教えてもらい、クレッシェンドやスタッカートなどを覚えました。しかし、音痴な僕は必死に取り組んでもうまくいかず、みんなの前で泣きそうになりながら指揮をしました。それを見かねた友達が音の取り方を教えてくれたり、一緒に練習しようと言ってくれたりしました。この時、寂しさや過去の辛い記憶からかなり解放されたと思います。1人じゃないんだと思えました。練習を通じて本当に仲良くなりました。合唱コンクール当日、僕は指揮者賞をいただき、クラスも最優秀賞を取り、大喜びしたのを覚えています。廊下で担任の先生が思いっきり走ってきて抱きしめてくれたのが本当に嬉しかったです。
・生徒会長
中学3年生の時、生徒会に立候補し、学級代表も務めていました。大暴れしていた過去とは完全に決別していました。これには友達や先生たちの存在が非常に大きかったです。外でバスケットをしていた時に出会った人たちも、僕が部活動を辞めて外の世界に飛び込んだことをリスペクトしてくれました。大人たちが僕をとにかく認めてくれて、自分はこれでいいんだと思わせてくれました。美術部に所属してたので放課後に絵を描き、生徒会を運営し、それが終わったら走って帰り、チャリでバスケットに行くという日々を送りました(更生できてよかったね😊)
また中学2年の時、初めて好きな人ができて勇気を出して告白して彼女なんかもできたりしてました。受験勉強も必死に頑張ったり、バスケットボールの練習を一生懸命やったり、友達と遊んだり、生徒会のことを考えたりして、とても充実した中学生活を送っていました。合唱コンクールで学んだように何事も自分から「楽しもう、頑張ろう」という気持ちで取り組むことの重要性を学びました。高校を決める時は、バスケットが強いことと英語教育が充実していることを条件に選びました。電話して自分を営業して飛び込んだ高校の中から進学先を決めました。しかも私立高校からは美術部なのにスポーツ推薦をもらうという意味の分からないこともおきました。結局そこには行かなかったのですが行動するって大事だなぁと思いました。この飛び込み戦略はこの後の人生でも続けていく僕の必勝パターンとなっていきます。
・英語への憧れ
英語に関しては、中学校の時の英語の先生が発音が非常にきれいで、その影響で興味を持ちました。素直に「かっこいいなぁ」と思ってるぐらいでした。興味を持っていただけで英語が得意だったわけではありませんでしたが、発音に憧れを持ったり、言葉の大切さを担任の先生から教わったので、英語や国語をたくさん勉強したいと思っていました。だから高校は国際教養科のあるバスケの強い高校を選びました。当日0点でも合格するくらい内申点を上げることに集中しており、高校入学テストではトップ3位の成績でした。勉強は得意ではなかったですが、とにかく頑張りました。
・差別との出会い
また、中学3年生の時に、自分の人生に大きな影響を与える出来事がありました。それが生徒会として参加した反差別集会です。僕の生まれ育った地域には部落差別という問題がありました。住んでいる場所が理由で差別されるという非常に悪質なものでした。そこに住んでいるだけで家にスプレーで「死ね」「消えろ」と書かれたり、結婚を拒否されたりするような差別を受けている人たちがいました。その集会に参加し、当事者の話を聞いてこれは絶対になくさなければいけないと強く感じました。その時、生徒会の先生に「どうやったらなくなるの」と聞いたら、「お前が先生になってこれから子供たちに伝えていけばいい」と教えてくれて、教師になることへの強い志を持つきっかけとなりました。今でもあらゆる差別に対して敏感で、見たり聞いたりすると体が反応してしまいます。反差別集会で号泣しながら話してくれた人たちのことを思い出すと、今でもいてもたってもいられなくなる感覚があります。あの集会に連れて行ってくれた生徒会の先生にも心から感謝しています。(マジで先生ありがとう)
高校時代
・女子が8割のハーレム高校生活
高校は行きたかった国際教養科のある高校に合格し、入学しました。クラスは男子が40人中6〜7名しかおらず、ほとんど女子という環境で高校時代を過ごしました。バスケットも勉強も頑張りたいと意気込んでいました。ちなみにハーレム羨ましいと他校の男子から言われましたが、普通にキツかったです。女性が強い社会でした(笑)。女性慣れしておらず、キモコミュニケーションだったと思いますが、人間不思議なもので環境に順応していきます。非常に苦労しましたが。ただ、そのおかげで異性とのいい関わり方を学べました。
・キツすぎたバスケ部
中学時代から外部でバスケットをしていたものの、毎日のように部活で走っていたわけではなかったので、高校の練習についていくのは非常に苦しかったです。公立高校の中でもトップクラスに強い学校だったため、他のプレイヤーは大阪の選抜に選ばれているような人ばかりでした。
練習はとても厳しく、僕の代は16名位がバスケ部に入部しましたが、最後まで残っていたのはわずか7名でした。(ヤバすぎぃw)ほぼ毎日朝練があり、早弁をして、昼休みには筋力トレーニング、放課後は夜の8時位まで練習が続きました。もう毎日フラフラで、慣れるまではほとんど毎日泣きながら練習していました。きつすぎる練習と先輩や先生の厳しさが重なり、とても大変な日々でした。
高校2年生の冬、僕はバスケ部の活動に限界を感じました。試合に出たり出れなかったりしていた僕は、この時期からほとんど試合に出れなくなりました。実力不足や度重なる足の怪我で、思うような練習や試合の結果を出せずにいました。この時の僕はバスケットボールを楽しんでいたとは言えず、ほんの1%すらも楽しめていなかった気がします。
部活の練習があまりにもきつくて、部員同士で「今日の帰り道、軽トラにひかれないかな」とか「急に伝染病にかかって学校休めないかな」といった話を本気でしていました。後輩が「最近一番幸せな瞬間は放尿している時」と言ってみんなで共感しすぎて爆笑したのを覚えています(アホすぎるw)でもマジでそんぐらいキツかったです。
中学の時に様々な場所で様々な人とバスケットを楽しんでいた経験と違い、高校の強豪のシステマチックな動きに全く馴染めませんでした。勝つことやシステムにこだわるよりも、バスケットボールそのものを楽しむこと、人とつながることが僕にとって大切だったのです。
最後は全力を出しきれずに引退試合では1秒も試合に出れませんでした。引退試合の後、悔しさとやっと解放されるという複雑な感情が入り混じった涙を流しました。
一方で顧問の先生には死ぬほど感謝しています。最後まで僕の成長を諦めずに声をかけ続けてくれました。徹底したバスケットの指導や日常の姿勢を3年間学び続けることができました。大人になってからどんな辛いことも余裕で乗り越えられるのはあの時の経験のおかげです。
そんな苦しい高校時代でしたが、救いもありました。高校時代に付き合っていた彼女がとても素敵な人で、彼女から色んなことを学びました。彼女は子供の頃から英語を習っていて英語がペラペラで、僕の英語学習のロールモデルでした。頭が良くて努力家で、生徒会長も務めるパワフルな人でした。思ったことをダイレクトに伝える姿勢も彼女から学びました。
同じクラスだったので別れた後は気まずくなってしまうというキモコミュニケーションを発揮してしまったのですが彼女には感謝しています。(思春期の男女関係って難しいよね)
・奨学生に選出される
また、大阪府で支給される「夢みらい奨学生」の1期生に選ばれたこともありました。学業、部活、課外活動に一生懸命取り組み、夢があり、経済的に困っている過程に給与型の奨学金をいただけるというものでした。高校の先生がパンフレットを渡してくれ、出願したところ、最高額の奨学金を支給されました。お金をいただけたことも嬉しかったのですが、何よりそこでできたコネクションが宝物でした。全国大会に行く部活動の子や、京都大学や東京大学に合格するような頑張っている人たちとの出会いが刺激的でした。イベントで、社長や政治家の話を聞かせてもらう機会もありました。この時、自分の周りにいる人たちがいかに重要かを感じ、これからの人生でも大切にしようと思いました。(基準しか勝たん!いい学びしてるね!)
・4時半に起きて勉強してたけど
部活動だけでなく、勉強も頑張りました。毎朝4時半に起きて勉強し、チャリで30分かけて高校まで通いました。朝練が7時から8時まで、授業を受けて昼休みにトレーニング、放課後は7時か8時まで練習し、家に帰ってからはおばあちゃんが作ってくれたおいしいご飯を食べて爆睡する毎日でした。(よく頑張ってたと思います)
からの大挫折
そのおかげで学年のトップ5位の成績を維持し、卒業時には学科で1位になりました。自分が賢いと思い込んで国立大学一本で受験に挑みましたが、結果は惨敗。センター試験で数学が20%しか取れず、国立大学には到底届きませんでした。高校で成績トップを取って有頂天になっていた僕は、井の中の蛙でした。
受験の結果を高校に報告すると、先生たちから「お前は落ちこぼれだ」と言われました。この言葉のこの後の人生に呪いとしてこべりついていきます。期待していた労いの言葉ではなく、厳しい言葉に心が折れました。トイレに駆け込んで、真っ暗な中で号泣しました。あの瞬間は人生で一番辛い思い出の一つです。人生うまくいかんなぁー。
浪人時代
河合塾へ
高校を卒業後、国立大学一本で受験に挑みましたが、結果は惨敗。浪人生活が始まりました。河合塾に通うことになり、この1年間も非常に辛いものでした。特に苦しかったのは、周りと比較されることです。入塾テストで国立を目指す人たちの中で一番下のクラスに配属され、先生たちから学力について厳しく言及されることが多かったです。自分が勉強しなければならないことは理解していましたが、馬鹿にされたような口調で話されることが多く、心が折れまくりでした。(ヘボい)
浪人生活中は真面目に勉強し、塾が開く朝の8時から閉まる夜の9時まで毎日塾に通いました。成績が少しずつ上がり、希望が見え始めた頃、さらに辛い出来事がありました。教室でご飯を食べていると、頭の良いクラスの子たちがわざわざ僕たちのクラスまで来て「ここが底辺のクラスか」と聞こえるように言われたのです。その時は本気で真に受けてしまい、非常に落ち込みました。おばあちゃんが作ってくれたおにぎりの味がしませんでした。
浪人中は自己肯定感がどんどん下がり、自分の人権すら否定してしまうことが多かったです。外食する時も浪人生の自分なんかが外食していいのかと考えてしまうほどでした。しかし、何とか頑張ろうと日々勉強を続けます。
・結果
迎えたセンター試験の2度目でも、数学でまたもやオオゴケ(えぐいて)。数学1A・2Bで合わせて90点ほどしか取れませんでした。文系科目は8割くらい取れていたのでそこそこ良かったのですが、センター試験の文系科目だけで8割だと、私立大学では弱く、国公立大学では数学の成績が足を引っ張って合格が難しい状況でした。
中学校の頃から学校の先生を目指していたので、教育学部のある大学を選び、大阪の大学に入学することにしました。まだ卒業生が出ていない新しい大学で、関関同立のような有名私立大学にも合格していましたが、教職を取りながらアルバイトやボランティアなど様々な経験をしてみたいと思い、教育学部のある大学を選びました。
この大学を選んだことを高校に報告に行かなければなりませんでしたが、大学受験に失敗した時と同じように色々なことを言われました。しかし、この時はもう聞く耳を持たず、現状を受け入れて、これから死ぬほど頑張ろうと心に決めていました。
いやあ、人生なかなかうまくいかないものですね。
大学時代
・これが僕のレベルか・・・
浪人生活を経て、大学では教育学部の英語専攻に進みました。いよいよずっと夢見ていた教職への道の1歩目を踏み出した感覚がありました。しかし、大学に入って待ち受けていた光景は、自分が想像していたキラキラしたキャンパスライフとはかけ離れていました。死ぬ気で勉強しようと思っている人はほとんどおらず、授業中にスマホゲームやマッチングアプリをしている人が目立ちました。その時に現実を突きつけられた感覚がありました。今の自分のレベルはここなのかと絶望しました。
しかし、僕は死んでも這い上がると心に決め、授業にはすべて出席し、勉強も頑張りました。この大学には1年間の交換プログラムの制度があり、アメリカに1年間行ってその単位が日本で認められるというものでした。これが僕がこの大学を選んだ一番の理由でした。4年間の大学生活で1年間留学もできて教職が取れる。しかも小中高と特別支援のすべて。この制度は本当に教師を目指す僕にとっては良き環境でした。
・極貧大学生活
大学2年生のタイミングで交換留学のプログラムに行けるということだったので、1年生の間はとにかく貯金することに徹しました。たまたま高校生の時に招待された帝国ホテルで求人を見て、ここで働いたらかっこ良さそうと思いアルバイトを始めました。外国人対応もさせてもらい、アルバイトにしては給料が高かったのを覚えています。コンビニなどの約2倍の給料をいただいていたと思います。大学1年生から2年生の途中の留学に行くまでに144万円を貯めることができました。実家暮らしで親に甘えまくっていたのもありますが、振り返るとよく我慢して貯めたなぁと思います。
・恋愛も頑張るよ
勉強とアルバイトを頑張っていると、次は恋愛です。大学1年生の時に出会った人と付き合い始めました。ちょっと不思議な感じのキャラクターの人で、一緒にいると面白かったです。留学費のために極貧生活をしている僕を素直に応援してくれるいい人でした。とにかく一緒にいるのが楽しいタイプで、今まで付き合ってきた人とは違うタイプだったので楽しかったのを覚えています。しかし、彼女は軽音部に所属しており、大学2年生になる頃に他の軽音部の男の子に取られてしまいました。当時の僕は男として未熟だったと思います。現実を突きつけてくれた彼女には感謝しています。ありがとう。
・ボランティアも頑張るよ
勉強とバイト、恋愛と頑張っていた僕ですが、ボランティアも行っていました。大学の近くの中学校でバスケットボールの指導をし、母校の中学校ではスクールサポーターとして英語の授業のサポートもしていました。毎朝4時半に起きて勉強し、バイトに行き、道中ではTOEICの勉強をして、バイト後に学校に直行。学校が終わったら中学校にボランティアに行く。こんな毎日を過ごしていました。1日18時間ぐらいフルで行動してました。高校の時に体力がついていたのでこのような生活ができたのだと思います。この上に友達と遊びに行ったり、彼女と出かけたりする時間もあったので、睡眠時間が少なく体調を崩しまくっていましたが、無理して色々とやっていました。
・死ぬ気で人生をやり直すが、、、
行きたい大学に行けなかったし、もっと志の高い人たちと一緒にいたらなぁと思うこともありましたが、今ではあの大学に行ったことは自分の人生にとって本当に良かったと思います。今も続いている「反骨精神」がこの時に培われたのだと思います。とにかく学校の先生になりたくて、一心不乱に頑張っていたという感じがします。
そんな中、トラブルが発生しました。留学に行くための資金が圧倒的に足りないという問題です。僕が父親にこまめにコミュニケーションを取っていなかったことが原因ですが、1年間のアメリカ留学にいくらかかるかを伝えきれておらず、資金不足に直面しました。貯金した1,440,000円も飛行機代や学費で一瞬で消えてしまいました。お金が一瞬でなくなることに絶望したことを覚えています。父親には「留学なんかなんで行くんや。お金的に無理や」と言われました。今でも鮮明に覚えていますが、父親の部屋で号泣しながらお願いをしました。もうこの瞬間を逃したら僕の人生は終わると確信していました。
高卒でずっと野菜を売ってきた父親からしたら、アメリカに留学することの意味や難易度があまり分からなかったと思います。それでも僕の異常な様子を見て動いてくれました。寝る間も惜しんで奨学金のことを調べてくれたり、借り入れるお金を工面してくれて、僕を留学に送り出してくれました。奨学金の書類に囲まれて力尽きるように寝ている父親を見たとき、僕はまた泣きました。この人の子供で良かったと心から思えました。正直あまり感謝の言葉を伝えていないので、日本に帰ったらちゃんと親孝行しようと思います。幼少期にいろいろあった父親ですが、結局は子供思いで、不器用ながらも無償の愛を届けてくれていたのだと思います。約400万円を借りて、アメリカに行くことが決まりました。ここから人生が動き出します。
アメリカ留学
・さぁ20倍だ
この時の僕はガンギマリでした。一緒に行っていた日本人の人たちからすると、キモかったと思います。本当にすみません。ただ、僕にとってこの留学は人生を賭けた戦いでした。英語を勉強しに行くとか、異文化に触れるとか、そういう軽いものではありませんでした。親が奨学金を借りてくれた姿、高校の先生に浴びせられた言葉、浪人中に馬鹿にされたことなど、すべてが自分の中で渦巻いていました。マジで死ぬ気でやると心に決めていました。また、大学の時に恩師に出会い、とても素敵な英語の先生がいて、そのおかげでTOEFLのスコアが留学の基準値を超え、アメリカ留学が実現しました。ユタ州ソルトレイクシティーのコミュニティーカレッジでの1年間の留学でした。僕のテーマは「人の20倍やる」でした。何を20倍やるのかはわかりませんが、とにかく行動しまくることだけを決めていました(もっと具体で考えようね)
・僕のたこ焼き留学
留学中、いろんな人と関わる機会を作ろうと、地元大阪のソウルフードたこ焼きをやろうと思い、スーツケースにたこ焼き器二台を入れてアメリカに到達しました。スーツケース2つしか持てない中、1つはたこ焼きの機械とたこ焼きの粉、鰹節などで埋まりました。荷物検査で引っかかり、たこ焼きの粉を「これは何だ」と英語で聞かれパニックになったのを覚えています。
・注意散漫レベルMAX
留学初日、事件が起こりました。パスポートをなくしました。到着した瞬間にパスポートがなくなるなんて、まじで焦りました。2週間パスポートが見つからず、英語で警察に電話をしても通じず、交番に連れて行かれても説明できず、ブチ切れられました(なんでキレられてるのかすら分かりませんでしたw)しかし、ホストファミリーの車のシートの隙間からパスポートが見つかりました。物をなくしやすいのは、この時から治っていません(泣
・とにかく行動だ!
「人の20倍やる」と決めていたので、とにかくいろんなことに挑戦しました。まず毎月たこ焼きパーティーを実施しました。僕がホストになり、パーティーをやるから来てくださいと学校中の人に声をかけ、1回目から20名以上の人が集まりました。知り合いのマンションの共用スペースを貸してもらうなどして、毎月行い、人数が増えるごとに楽しくなりました。最後には65名もの人が集まり、たこ焼きを通して人脈が広がりました。
また、ボランティア活動も行いました。大学の日本語クラスに参加し、近くの高校の日本語クラスのチューターも務めました。英語で日本語を教えることで自分の英語力も向上しました。この日本語クラスで運命の出会いを果たしました。クラスにいた髪の長い金髪の女の子が連絡先を聞いてきました。後日デートに行き、バレンタインデーに告白して付き合うことになりました。この人が今の奥さんです。アメリカ人の彼女と付き合うなんて思ってもいませんでしたが、国籍や言葉の壁を越えて愛を育みました。
留学中、3つの無償アルバイトも経験しました。学生ビザではお金を稼ぐことが禁止されていましたが、英語を使って仕事をする経験がしたくて、いろんな場所で無償で働かせてもらいました。エジプト人の友人が経営するファラフェルトラックでは、ファラフェルを作って売る経験をしました。日本人がアメリカでエジプト料理を売るという不思議な経験でしたが、英語力が大きく向上しました。他にも、結婚式場で働き、テーブルの設計や料理の出し方を学び、マネージャーのポジションも任されました。
大学の授業も頑張り、教育学や心理学を専攻しました。授業中に先生の声を録音して、移動中に何度も聞き直すなどの工夫をしました。結果、受けていた授業はすべてAを達成し、パブリックスピーキングの授業では最高の成績を取りました。
アメリカ留学中はとにかく行動しまくり、現実が動きまくる感覚がありました。やっと自分の人生の歯車が回ってきた感じがありました。大学も頑張り、友達もたくさん作り、3カ所で仕事をし、彼女と同棲も始めました。ボランティア活動や地域のバスケットチームへの参加、スペイン語の勉強、教会への通いなど、さまざまな活動を行いました。
留学の成果として、TOEICでは800点以上のスコアを取れるようになりました。毎日死ぬほど勉強し、アウトプットし続けた結果、自分の努力が実を結びました。21歳の時、やっと自分のことを信じられるようになりました。今後もこの勢いを続けていこうと思いました(頑張ってよかったね!)
・教員試験無双
日本に帰国してからもこの勢いは止まることなく、英語を使って仕事をしたり、アメリカの古着に対する考え方と日本の古着に対する考え方の違いに着目し、アメリカの古着を日本に輸入してバイヤーのような活動もしていました。アルバイトと古着のバイヤー業で、社会人の初任給の2倍くらいのお金を大学生の時に稼ぐことができていました。そのお金を使って借金を返すのではなく、もっといろんな経験をするためにスペインに一人で留学することも決めました。
帰国後、すぐに教育実習に行かなければならなかったり、教員採用試験の勉強をしなければならなかったりでかなり慌ただしかったです。しかし、アメリカで他の人の20倍の努力を経験していた僕は、教育実習も教員採用試験も余裕で乗り越えることができました。教育実習中は土日も休まず部活に参加し、いろんな先生たちから話を聞くことができました。教員採用試験は自分が落ちたら誰が受かるんだというくらい自信を持って受け、3つの自治体すべてに合格し、結果として関東の方に行くことになりました。教員採用試験の順位もトップスリーに入っており、やっと自分の努力や行動が報われたと感じました。同時に、やっと夢だった教師になれるとワクワクしていました。
・豪遊しちゃおう、、、
合格を勝ち取ってから、アメリカから彼女も来てくれて、二人で東京や横浜を2週間くらい観光しました。大学生では普通できないようなリッチな遊びをしたのを覚えています。東京ディズニーランドと東京ディズニーシーに行ってミラコスタに泊まり、その後インターコンチネンタルに5泊連続で宿泊するという、今の僕でも高いと思うようなことをしました。それでもアメリカから来てくれた彼女のために何かしたいと思い、頑張った記憶があります(しかもタクシー移動してました。歩けよ。)
・なんか、スペイン行っちゃおう、、、!
教員採用試験も落ち着き、スペイン留学が始まりました。留学といってもたった1か月程度の短期留学でしたが、これも非常に楽しかったです。アメリカにいた時にヒスパニック系の友達がたくさんできて、スペイン語を勉強し始めていたので、それを実際に使う良い機会だと思い、スペインに行きました。英語を習得していたこともあって、スペイン語の習得がすごくやりやすく、日常会話ができるようになるまで時間はかかりませんでした。この成長速度も自分の中で非常に楽しく感じ、現在言語学者になろうとしているのもこの経験から来ています。
スペインで出会った友達が非常に大人っぽくて、なぜこんなに大人っぽいのかと色々な人に聞いたところ、全員がマルチリンガルであることがわかりました。3カ国語から4カ国語ぐらいを普通に話すのです。いろんな国の言葉を話せるということは、いろんな国の人たちの考え方や思想が入っているということです。だから、物事に対して多角的に考えられる、いわゆる頭の良い人や大人っぽい人が多かった印象です。
スペインでも様々な経験をしようと思い、学校に行ったり、ボランティアをしたり、地域のバスケットチームに参加したり、毎晩クラブで大暴れするという日々を送りました。この時の自分は何でもできると思っており、昔の自分から解放された感覚がありました。
スペインから帰る当日に、ニュースでコロナウイルスについての報道を見ました。ちょうどスペインから日本に帰る時で、空港で「あなたは中国人ですか?」と聞かれ、「ヌンカ(never)」と答えました(多分答え方間違えてる。)
日本に帰り大学4年生だったこともあり、学校でやることもなく、その後アメリカに行って彼女に会いに行きました。たくさん山登りをしたり、グランドキャニオンに行って星空を見たり、とても楽しい日々を過ごしました。その裏側ではコロナが猛威を振るっており、日本にも到達していて、親から早く帰って来いという連絡がありました。そして日本に帰国し、さあ、夢の教師生活が始まります(いい生活してんなぁ)
社会人一年目
・夢だった教師になった
ここから社会人生活が始まります。社会人1年目は中学校の教師を。大学推薦をいただき、一度も行ったことのない関東の地へ教師をしに行きました。中学1年生の副担任からのスタートでした。バスケ部の顧問をさせていただきました。担当教科は英語と国際の2つでした。僕が行った学校は、海外とつながる生徒がとても多い学校で、20%以上の生徒が海外にルーツを持つ子供たちでした。日本語を話せず、英語も話せない子供たちもたくさんいました。ポルトガル語や中国語、韓国語、スペイン語など様々な言語が飛び交う環境でした。自分にはぴったりな場所だと思いました。
先生になって初日、職員室で皆さんに挨拶するタイミングがあり、そこで自分の思いを話しました。日本の英語教育をより良くしたいということや、子供たちのために一生懸命頑張りたいという思いを素直に伝えました。すると、その後校長先生から「君が期待するような教育はここにはないかもしれない」と意味深なメッセージをいただきました。言われた瞬間はよく意味がわかりませんでしたが、この後わかってきます。
結局、学校現場で行われている英語教育は、ついて来れていない子をサポートしたり、どうやって高校受験に合格させるかということが強く求められていました。もちろんアクティブラーニングやインタラクティブなクラスルームを作るということはカリキュラムに書いてありましたが、現場でそれを実現するのは至難の業でした。もちろん僕の能力が初任者だったため、足りなかったのもありますが、1人で40人の生徒を教えるということはとても難しかったです。さらに、子供たちの英語力には大きな差があり、英語ネイティブの子もいれば、英語も日本語もわからない子もいました。まさにカオスでした(マジでどうやって授業すればいいねんって今でも思います)
とにかく教科書を終わらせることや、1年生でやるべきことを終わらせることに必死になり、一生懸命授業づくりに専念していました。毎朝、他の先生たちよりも早く出勤して、1本授業を模擬授業として毎朝やっていました。土日も海外のESLの授業を見たり、英語の授業の作り方の本などを片っ端から読み漁りました。とにかく夢中でした。それがやりたくて学校の先生になったので本当に楽しかったです。
しかし、こうやって授業づくりに専念できたのは初めの3ヶ月くらいでした。というのも、コロナが流行っていたので学校が基本的に閉まっていて、初めの3ヶ月間はかなり余裕がありました。子供たちの課題を作ったり、授業作りをしたりする時間が多かったです。しかし、コロナが明けて学校が始まると、とんでもなく慌ただしくなってきました。部活動のこと、委員会のこと、国際教室のこと、授業のこと、成績の付け方、その他諸々、初任者で副担任というポジションだったのですが、それでもこんなにやらなければいけないことが多いのかと思いました。担任の先生や学年主任の先生たちが「鉄人」であるということを身をもって感じました。凄すぎます、あの仕事。
・多忙すぎる教員
学校が本格稼働し、超忙しかったです。ただクラスの子たちとより距離を近く関われることや、一緒にクラス運営について考えるなどはめちゃくちゃ楽しかったです。その中で訪れた8月のタイミングですね。
僕はこの教職の仕事を続けていくかを揺るがす事態に直面しました。それは部活動です。夏休みに入って本当は教材研究をして、1年分の授業を作ろうと思っていたのですが、全く時間がありませんでした。なんでこんなに時間がないんだろうと思っていましたが、それは部活動のためでした。
バスケットボール部の顧問をしており、もう1人バスケで全国を経験しているようなすごい先生がいらっしゃり、2人でバスケの顧問をさせてもらっていました。超楽しかったですし、本当はもっとこちらにも時間を使ったりコミットメントしたかったのですが、英語の授業作りをど真ん中にやるために教師になっていたので、正直このバスケの時間が自分にとってはしんどかったです。夏休みの間に練習試合に行き、自分の見ていない学校の子たちの審判をするという場面が何度かありました。部活の顧問だったら当たり前の話かもしれないのですが、僕的にはもうこの辺からこれはもう完全に僕のすべき仕事ではないなと思っていました。僕はバスケの審判になるために、アメリカやスペインに留学したわけではありませんし、そこに対して時間を使いたくて教師になったわけでもありませんでした。審判でファウルの笛を吹きながら、もうこの仕事は今年いっぱいでやめようと決断しました(この時の情景を想像して見てください。クッソシュールなので。)
嘘のような話かもしれませんが、本当です。8月で辞めを決めるなんて早すぎやんと思うかもしれないですが、本音で決めました。ただ途中でやめたくなかったし、学校の先生の仕事自体は超楽しかったので、1年間本気で死ぬほどやると決めました。
・若手教師の叫び
大学を出たての僕のようなペーペーの人間が、何のインプットもせずに、これまでの大学までの蓄積だけでアウトプットし続けるというのは、とんでもなく気持ち悪かったです。子供たちに勉強を教える立場として、自分が勉強する時間すら取れないという状況にめちゃくちゃ苦しみました。そこが正直一番しんどかったです。部活動のことよりも、授業にまっすぐ向き合うための時間すらないということが一番苦しかったです。もし学校の先生を目指している方がいらっしゃれば、そこが永遠の課題になる気がします。だって嫌じゃないですか。英語って楽しいんだよって教えている先生が英語を全く使っていなかったり、英語を使って活躍していなかったり、英語の勉強を自分自身ではできていなかったりすると、何か嘘のような感じがしてしまうんですね。そんな自分になりたくなかったのに、そういう生活を送ってしまっている自分がいて、自己嫌悪に陥りました。
基本的に毎日朝の6時半や7時くらいに学校には着いて、帰るのが夜の6時半や7時、遅い時は9時10時くらいまで残っていました。もちろん家に帰ってからも授業作りや授業を作るための情報のインプットに時間を使っていたので、毎日14時間くらいは学校の先生に関わる仕事をしていたんじゃないかと思います。土日も部活動があり、それ以外の時間は授業づくりのために脳を使っていました。体力自慢の僕ですが1度だけトイレで40分間ぐらい意識を失っていました。頭も回らなくなり、授業があるのに職員室にいることも1度ありました。(マジで限界が来てました)
・父親に連絡
教師を辞めようと思っている旨を父親に伝えたら、かなり驚いていました。そりゃそうだと思います。中学校の時からずっと学校の先生になると言っていて、やっと慣れたの1年で辞めると言っていたのでびっくりしたと思うし、普通に止めてくれました。当たり前の反応だと思います。ただ 自分の中で意思は固く自分自身が英語を使ってグローバルに活躍する。もっと海外に出て世界を広げるそういった経験をしながら教えれる人間になりたいと思いました。それは学校の先生をやりながらでは絶対にできないと思ったので、意思は固かったです。
・初めての就職活動
じゃあどうするのという感じなのですが、教育学部を出て学校の先生を1年だけ僕が社会でやっていけるのかと言う不安はもちろんめちゃくちゃありました。退職をすると決めてから 睡眠時間は毎日4時間位になった気がします。これまでのタスク量+転職活動も入ってきたからです。ほんとにしんどかったです。とにかく情報の集め方がわからず、就職活動を学生時代に全くやってなかったので、そのツケが回ってきました。全部1から調べて、とにかく駆け回りました。転職サービスをいくつも受けたり、ハローワークにも行きましたし、教師から転職した方を何とか見つけてお話を聞きに行ったり、おそらく30人ぐらいの人から話をお聞きしたと思います。何が難しかったかと言うと、とにかく僕の休みがないことです。なので面接をする時間すらなかったのです。夜の時間で調整していただいたりして何とか転職活をしていました。
・クリスマスはハローワークでジングルベル
唯一の休みがクリスマスにありました。午前中で学校が終わると言う奇跡的な1日がありました。(もはや休みではない。)
クリスマスにハローワークに行って 相談をさせて貰いました ハローワークで自分の思いやスキルを話すと、君はここに来るような人じゃないと言われたのすごく強く覚えています。どういう意味で言ってくれたのかはあんまりわかってないのですが、ここはここ使わなくていいし、君が入りたいような会社はここにはないと言われました。すごく大きな気づきでした。僕はてっきり大企業の中に入って経験を積んでいくのが王道だと思っておりましたが、自分の話をするともっといろんな可能性があるよって言うことも伝えてくれました。おそらく相談を乗りまくっている超ベテランのおじいちゃんの人が相談に乗ってくれたのですが、本当に良い時間になりました。ハローワークって あまり良いイメージはなかったのですが、すごく親身になって話を聞いてくれました。そこから今の時代ITやAIが来るということでその領域に絞りつつ、英語教育の文脈も絡めて仕事ができるところを探していた結果、次の会社が見つかりました。
社会人2年目-3年目
公務員からAIのベンチャーへ
海外のTOEIC学習アプリをローカライズして、日本で売るということや、 英語学習証をオンラインで見れるようなサービスを展開している会社でした。そこの転職しました。この会社がAIと英語コーチングを合わせた新規事業をやっており、そこのカスタマーサクセスポジションを募集していたので入りました。僕のほんとにやりたかったのはカスタマーサクセスではなく、 0→1 で事業を大きくしていくのを自分も携わりたかったというのがありました。かつ英語コーチもやりたいと思っていたので、採用の段階でカスタマーサクセスはもちろん全力でするが、ある程度結果が出たタイミングで、英語コーチングをやらせてほしいと言うように交渉をして入りました。カスタマーサクセスが何かすらわかっていなかったので、面接を受けるまでに5冊程度。カスタマーサクセスやカスタマーサポートに関する本を読んで、もうカスタマーサクセスの人だと自分を思い込ませて面接に臨み、見事入ることができました。社長さんに君は今は何もできることがないと思うけど、良い人ではあるねと言われました。彼の言葉はプラスにもネガティブにも取られることだと思うんですか?僕はすごく良い風に捉えていて、すごく良い言葉をいただいたなと思ってます。この会社は多国籍企業でいろんな国のメンバーがいてすごく楽しかったです。個性がとにかく強かったです。そして皆さんとてもとても優秀でした。なので刺激にもなりました。大体東京の有名な大学を出られていて、当たり前に英語も話せたり、韓国語や別の言語も話せると言う方がたくさんありました。
・職員室から麻布十番へ
会社のオフィスは、初めは西麻十番にあり、大阪の田舎から出てきた僕にとっては、初はとても緊張する環境でした。サラリーマンが全員キラキラして見えました。(最初だけ)入社した初日はMacBookを支給されたのですが、MacBookの電源の付け方すらわからず笑われたのを覚えています。そのくらい何もなかったです。今でこそパソコン1台で仕事をするとか言ってますが、電源の使い方すらわからなかったです。もちろんWordやExcelなども高校で習った程度しかできませんでした 周りの人たちは当たり前にITを利用してバリバリ仕事をされていたので、マジでやばいと思いました。そっからはもちろん平日は仕事にめちゃくちゃ打ち込みましたし、土日もそれに関連する本を読んだり、ベンチャーで働いている方々にあって、初めに何をすべきかって言うことを教わりました 営業に関する本マネジメントに関する本、カスタマーサクセスに関する本、英語教育に関する本様々な本を永遠に読んでいたのを覚えています。
・ここで英語コーチング沼にハマる
またその一方で、英語コーチデビューするための準備も進めており、自分で競合サービスにお金を払って受けに行き、自分自身の英語をスキルも高めることに専念しておりました。もともとTOEIC 800点程度あったのですが、1ヵ月920点まで上げ900点以上あったら英語コーチとし デビューしてもいいよと言ってもらってたので、速攻で目標達成しました。さらに英語コーチングのカウンセラーの人数も足りていないということだったので、土日も僕稼働できますと言うふうにお伝えし、カウンセラーに入りさせてもらっていました。いわゆる営業ですね。なので、ここも先輩カウンセラーから土日にお稽古をつけてもらい、バチバチに練習しました。超楽しかったです。彼女と日本とアメリカの遠距離恋愛だったと言うこともあり、365日全部仕事に投下できました。このおかげで本当に急成長できたベンチャー時代だったなと思います。そしてとにかく周りの人たちが良かったです。多様性を受け入れたり、何も知らない僕を馬鹿にすることなく全部ちゃんと教えてくれました。答えをすぐに教えてくれるというよりかは、その答えの導き方を教えてくれるような方が多かったです。
・解雇
入社をして順風満帆かと思われたのですが、なんと僕が入社してたった半年で英語コーチング事業の撤退が決まります。僕がど真ん中でやりたかった事業でした。絶望しました。仕事って本当になくなるんだと思いました。その時に強く思ったのが自分の人生ってなんて不自由なんだろうと思いました。自分の人生の舵を自分で握れていない感覚を痛烈に感じ、このままでは本当にダメだなと思いました。そこからまた転職活動を開始します。しかし短期離職を2回も繰り返していたためかどこも入社できなかったです。10社ぐらい受けたんですが全部落ちました。絶望でした。そのタイミングで社長から他のポジションだったらあるから来てくれと言うふうに言っていただけました。こんな人思いな社長は他にいないと思いました。僕はもう何でもやると言う形で入りました。
ローカライズって何、、、?
その時にローカライズと言うポジションで、アプリの言語を英語や韓国語からわかりやすい日本語に変えていくと言う仕事をチームを持ってさせてもらっていました。全くの未経験ポジションでいろんな会社のローカライズの方にお話を聴きにいきました。一見僕の英語力が使えたりして良さそうなポジションなのですが、正直言って全く僕の適正と合っていなかったです。僕は人とコミニケーションを取ったり、チェアアップするのがすごく好きだったのですが、そういう場面がほぼなかったです。とにかく画面と向き合って作業をしていたり、チームのメンバーの進捗を管理したりするのが役目でした。せっかく社長にいただいた仕事だったのですが、1年やったタイミングでこのままではダメだと思い、独立すると決めました。実はそのローカライゼーションの裏側で自分で英語コーチングを始めており、始めてから半年位のタイミングで月に80万円位の収入が立つようになっていました。そちらで独立しようと思い社長に話独立を決めました。この時もかなり止められましたし、英語コーチングはこれから大企業が安くやっていくから個人でやっていく君みたいな人はすぐ淘汰されて終わると。当たり前に見えてる未来を適切に教えてくれました。僕は阿呆だったので「それでもやりたいです」とか言ってやめました。今社長が言ってた事はめっちゃわかります。だから今僕は英語コーチングをメインではやっておらず、他の事業を大きくすると言う形で動いています。 馬鹿で素直が取り柄だった僕なのに、あの時だけはどうしても頑固になりました。泣きながら話したのを覚えています。その涙は怖さもありましたし、僕なりの勇気でした。でもやると決めたので辞めました。
フリーランス1年生
ここから独立してからの人生が始まります。とにかく不安だったのですが、不安を解消するためには行動しかないと思い、とにかく動きました。オンラインコミュニティーやビジネス交流会にも積極的に参加し、コネクションを作るよう努めました。しかし、自分の商品を売るという前提で人と関わると全く楽しくなく、そんな関係はうまくいくはずもなく、独立したての数ヶ月間は、ぎこちない人間関係を築いてしまっていた気がします。(僕が一番嫌いなタイプのやつになってしまってました)。
・コーチングを受ける
このままでは良くないと思い、コーチングを受ける決断をしました。マインドセット・コーチングアカデミーを卒業された方のコーチングを受けました。その中で自分がなぜ教師を辞めてまでこの道に進んだか、これからどうなりたいかなど、とにかく話しました。自分の中に渦巻いていた「自分は不幸だ」という幼少期のトラウマ的な考え方や、「自分はポンコツだ」という大学受験に失敗した自分のセルフイメージを捨てる決断を彼のコーチングセッションの中ですることができました。すっごく身軽になりました。そして、どうしていくかというゴールを考えたとき、もっと英語学習をみんなで楽しくする場所を作りたいと思い、英語コミュニティーの立ち上げを行いました。今では170名くらいの規模になっています。
また、仕事経験があまりない僕は、仕事のゴールがうまく描けず、趣味のところで大きなゴール設定をしました。それが毎月違う国に行って生活するということでした。大学の時にぼんやりと、いろんな国に留学し続けられる人生があれば最高だなと思っていました。そして、そこで学んだことをたくさんの人に教え続けられる人生があったらもっと嬉しいなぁと思っていました。そんなのは無理だと勝手に思い込んでいましたが、そのドアをコーチが開けてくれ、本当にやると決断しました。この決断をしたのが2022年で、2023年に実際にこれをやりました。超楽しかったです。そしてこのタイミングでアメリカへ渡米し、4年間の遠距離恋愛をしていた彼女にプロポーズし、結婚することになりました。ここだけでもめっちゃ話が長くなるので前の記事を貼っておきます(気になる方は後で読んでね!)
・コーチになる
コーチングを受ける中で、その様子を全部SNSで発信することにしました。ゴールを宣言して、その過程を投稿していくプロセスエコノミーの考え方に基づき、発信活動を始めました。すると見てくださる人も増えてきて、そこから英語のコーチングが受注するようにもなっていきました。
また、ライフコーチングを受けていく中で、僕もこれを人に提供したいと思うようになりました。ある日、DMが来て「真登さんってコーチングを提供されているのですか?」と聞かれました。当時はコーチングを売るようなことはしていなかったのですが、「やってますよー😊」と答え、コーチングセッションをすることにしました。しかし、体系的に学んだことはなく、自分がコーチングを受けているだけの立場だったので、この人の人生をより良くするためにどうすればいいかを徹底的に考え、自分自身もコーチングスクールに入る決断をしました。そこで入ったのがシンガポールにあるコーチングスクールでした。
・シンガポールのコーチングスクールに通う
自分の性格上、人と同じことをするのが好きではなく、日本人のコーチたちがみんな日本でコーチングスクールに通っていたので、僕は海外で受けようと思い、シンガポールのコーチングスクールで学び始めました。そして、コーチとしての生活も始まりました。当時持っていた商品が、英語のコーチングとコーチングと英語のコミュニティーの3つでした。この3つを磨き上げることに専念し、独立して1年目で会社員の時の2倍以上の収入を得られる状態になっていました。コーチングを受けておらず、お金のために仕事をするというマインドだったらこんなふうにはなっていなかったし、もっと不幸だったと思います。ただ、とにかく助けたい人がいて、その人たちのために一生懸命動いた結果、少しずつ軌道に乗り出して、人生もすごく楽しく充実したものになっていました。
・ノマドの練習をするというダサ男
毎月違う国で生活するというゴールを設定したものの、やっぱりびびっている自分がいてなかなかできず、まずは日本の中でホテル生活を始めてみたり、ゲストハウスを渡り歩くような日本国内でのノマド的な生活をやり出しました。海外の準備練習編みたいな感じです。今振り返ると結構ダサいなぁと思うのですが、実は僕、周りの人から行動力がすごいとか決断力がすごいねって言ってもらえる機会が多くてめちゃくちゃ恐縮なのですが、実際にはめっちゃビビリなんですよね。ただ、それで終わるのではなく、ちゃんと決めたことをやると決断し、少しずつ行動を重ねていきました。
・お前は何がしたいんだ
シンガポールのコーチングスクールも卒業し、一人で生きていくのには十分な収入を得ることができるようになっていました。フリーランス1年生で約1000万円の年収があり、ある程度好きなことはできるようになりました。ただ、この時に僕の中で渦巻いていた感情が「このままで良いのだろうか」こんなことをするために僕は学校の先生を辞めたんだろうかという疑問でした。フリーランスになった方なら誰でもぶつかる壁だと思います。一人でできることなんて本当に少ないですよね。僕はこのまま歳を取っていって良いのだろうかと不安になりました。教師の時も不安、会社員の時も不安、フリーランスになっても不安。マジでこの不安って一生つきまとうんだなぁと思っていましたが、コーチに相談したところ、「不安はゴミだ。捨てろ」と言われ、捨てる決断をしました。もちろん決めたからと言ってすぐに捨てられなかったのですが、これは思考のトレーニングだと思いました。不安が渦巻いた瞬間に「じゃあどうするか?」と自分に問いかけて、アクションで解決するようにしました。
・マインドセットコーチングアカデミー入学
そんな中、僕もマインドセット・コーチングアカデミーに通おうと思いました。シンガポールのコーチングスクールも非常に学びが深かったのですが、自分が受けているコーチからのコーチングとは少し違う感覚がありました。優しくて温かいコーチングでした。それはそれでたくさんの人の人生を救い、人生を変える関わり方になると思ったのですが、もう一度本質的にコーチング(マインドセット・コーチングアカデミーが提供するもの)を学んだ方が人生に大きなインパクトを与えると確信していたので、そちらに通うことを決めました。
30歳以下は入ることができないとホームページに書いてあったのですが、当時26歳の僕は直接コーチングアカデミーの代表の李さんに会いに行き挨拶をしました。そうでもしないと僕のような何の実績もない26歳の人間は入ることができないだろうと思ったからです。なんとそれもちょっと運命的かもしれないのですが、ちょうど僕の毎月海外生活が始まる1日前の出来事でした。李さんがたまたま名古屋でセミナーをするという情報をSNSで見て新幹線に飛び乗りました。そしてマインドセットで学びたいということと、その時の自分のゴールをシェアしました帰ってきた言葉はすごく意外でした。「人生をなめてるな」と帰ってきました。かなり衝撃でした。自分的にはすごく頑張ってるんじゃないかと思っていたのですが、まさかの回答でした。僕は人生をなめているのか、この言葉はどういう意味なんだろうとすごく考えたんですが、当時の僕にはわからなかったです。今の僕には明確にわかります。人生を舐め腐ってました。
今は僕なりのアンサーがあります。あの時の自分は矢印が自分に向いてました。自分がこうなりたい、自分がこんな風に生きたいそればっかりが先行していたように思います。マインドセットが大事にしている事は、アンセルフィッシュ(利他的に生きるということ)それを全く体現していなかったように感じます。だからあんなふうに言ってくれたのかなぁと今では思います。じゃあ矢印を相手にだけ向けてお客様のためだけに生きるみたいな感じで生きるのもなんか違うなと思ってます。究極にセルフィッシュに生きた結果、周りの人たちの役に立てるそれこそが最高のアンセルフィッシュな形だと思っています。自分の大好きなこと、誰かに止められてもやってしまう位情熱のあること。それを世の中にぶちまけた挙句人の役に立てる。それこそ天職であり、最高の人生なのかなと思っています。僕は今それを体現するために動き回っていると言う次第です。
・やりたいこと全部やろう
さぁ、2023年、去年の話です。去年も激動の時代でした。コーチングスクールに入り、毎月海外生活をスタートし、自分の中の当たり前やこれまでの既存の価値観をぶち壊す経験を何度も何度も繰り返しました。そのたびに吐きそうになって号泣したり、床にめり込む位泣いたりもしました。でもそれのおかげで少しずつですが、自分の向かいたい人生に体が動くようになってきました。去年やったことをざっと振り返ると、まずは起業です。個人事業主で英語の先生として生きていたのですが、自分のゴールを達成するために先生ではダメだと思い、これからは起業家と言語言語学者とプロコーチの3つのわらじを履いて生きるということを決めました。
自分が登りたい山に旗を立てました。
・筋トレが最強のソリューション!
そして自分自身の見た目のところもゴール設定をし、ベストボディジャパン大阪に出ることを決断しました。僕はずっと子供の頃からアトピー性皮膚炎で肌がボロボロでした。朝起きるとベッドが血まみれになっていたり、体が傷だらけになって絶望することを何度も経験していました。毎月病院に行って大量の薬をもらい、先生からは難治認定されるほど悪い状況で、「これは一生なくならないと思って付き合ったほうがいい」と言われていました。
僕にとってベストボディジャパンは、ただ筋肉をつけてみんなの前でかっこいいと言われるためではなく、今まで人前で肌を見せることができなかった人生からの解放を意味していました。アトピーを絶対に治すと決断し、ベストボディジャパン大阪に応募しました。すごく怖かったです。めちゃくちゃ面白かったのが、ベストボディジャパンに応募してから、なんと寝ている間に無意識に体を掻くということがピタリと止まりました。本当に不思議でした。何百人の前でパンツ1枚で立つ自分を想像したとき、やっぱりボロボロの肌は見せられないと無意識が判断したんだと思います。病院の先生にも超びっくりされました。「何があったんですか?」と衝撃の顔で見てくれたのを今でも覚えています。僕の回答は「筋トレを始めました」とニコニコしながら答えました(筋トレが最強のソリューション!)
・命の危険を犯してパプアニューギニアへ
また、毎月海外生活もずっと続けていましたが、基本的に東南アジアの比較的暮らしやすい場所で生活していました。あとは妻の地元のアメリカですね。もうもはや海外に行くということは5カ国目くらいでコンフォートゾーンになっていました。タイとかセブ島とかは隣町に行く感覚です。そこで迎えた8月、僕はパプアニューギニアの超田舎、電気も通っていないようなポポンデタという村に行くことを決めました。たまたま前職の教師の時にジャイカでパプアニューギニアで活動されていた方と繋がり、一緒に行くことになりました。めちゃくちゃ楽しかったです。そこでは電気も通っていませんし、危険な虫もたくさんいましたし、治安がとにかく悪く、命の危険性もあるからSPをつけていく必要があると言われました。それは完全にコンフォートゾーンの外側でした。アメリカにも治安が悪いところがあって危険なこともありましたが、実際に襲われた人の話などもパプアニューギニアでは聞いていたので超怖かったです。
・コンフォートゾーンを抜けた先に奇跡がある
それでも向こうに行って僕は「世界中に友達を作る」という人間関係のゴール設定をしていたので、パプアニューギニアの人たちとも仲良くなろうと思っていました。パプアニューギニアでは衝撃の連続でした。本当に行ってよかったです。僕がやったことは学校に入って、日本語や英語を教えるというボランティア活動でしたが、その中でたくさんの気づきや学びがありました。1番の衝撃は、パプアニューギニアには約800以上の言語があり、世界全体の言語の中の10%をパプアニューギニアが占めているという事実です。これ知ってましたか!?すごすぎませんか?!この話を聞いて、言語ってなんて面白いんだろうと思いました。
そして、パプアニューギニアの人たちは、みんな英語とその村で話す母語の二言語を話します。僕はそのことについて「すごいですね」と褒めていましたが、ある日先生に「英語が話せるということは誇らしいことではない」と強い口調で言われました。どういうことかと聞くと、「自分たちの母語を奪われることは文化の消滅を意味しているんだ」と説明してくれました。日本で生まれ育ち、英語がかっこいいと勉強してきた僕にとっては衝撃の事実でした。確かに、自分の国の言葉を奪われるというのはすごく寂しいことだと感じました。英語の見え方が180度変わりました。
また、この村にいた時に何度も紛争が起きました。殴り合いです。なぜ起きたのか詳細はわかりませんが、違う村の人がこの村に入ってきたタイミングでみんなで追い返すということです。もちろん言語は通じません。同じ国の人たちですが、違う村の人たちは違う言葉を話します。僕は思いました。「もしかしたらただ友達になりたいと思って来ただけかもしれない。もしかしたら助けを求めてきていたのかもしれない」と。それはコミュニケーションが取れないとわからないことで、もしそういう人たちをあのように追い返してしまっていたとしたら、すごく悲しいことだなと思いました。もちろんただ襲いに来ている場合もあったので、村人に対して何の感情も持っていないですが、言葉でコミュニケーションを取ることはとても大事だと改めて思いました。争い事や戦争の根源もこういった部分から来るのかなとなんとなく思いました。改めて言語の面白さや重要性を感じる時間でした。
・身体全体に稲妻が走る
そんなことに興味を持って生きていると、すごく面白いことが起きました。マルチリンガリズムという学問に出会ったのです。大学の先生にこの出来事を話したら「マルチリンガリズムを学べばええやん」と返ってきました。「何それ?」という感じでしたが、調べるとまさに僕がやりたかったことだと感じました。稲妻が走ったのを鮮明に覚えています。
2023年の10月くらいにそれを知り、次の月には大学院に通ってそれを勉強する決断をしていました。とにかく学びたいという一心でした。アカデミックな世界とは無縁だった僕が、いきなり大学院進学を決め動き出しました。大体大学院の入学は海外だと1月くらいが盛んな時期で、僕は決めた時にはもう時すでに遅しという感じでしたが、1つだけオランダの大学院でマルチリンガリズムを学べるところを見つけて、そこにアプライしました。めちゃくちゃ英語の勉強もしたし、エッセイを書いたり、モチベーションレターを書いて推薦書を書いてもらったり、とにかく慌ただしく動きました。
結果は、英語のライティングの試験が0.5点足りずに落ちるという結果に終わりました。でも本当に自分的にはナイスチャレンジだったなと思いますし、今年絶対にリベンジします。これは一生かけて学びたいことなので、ずっと探求を続けていきます。
・人生はトレードオフじゃないんだよ!
その後も毎月海外生活は続行していきました。ベストボディジャパンに出るということも決めていたので、旅先でも食事制限をしたり、トレーニングはずっとやっていましたし、起業の準備も進めたり、司法書士の方とのやりとりを進めて会社の設立もできました。採用も進めて新規事業を始め、英語で仕事をするスクールの立ち上げも行いました。またこの時は東京で妻と一緒に過ごしていたので、二人の時間を作ることも大切にしていました。またコーチングスクールの学びも同時並行で行っていました。今振り返るとなかなかたくさんのことを同時並行で進めていてしんどかったなぁと思いつつ、めちゃくちゃ楽しかったなぁと振り返ります。最高です。
毎月海外生活の区切りとして、12月にハネムーンでハワイに2週間の旅行にも妻と行くことができました。多くの人は「起業をすると家族との時間がなくなる」とか、「海外旅行に行くと食事が偏ってしまい、ボディメイクできない」とか、いろんな壁について僕に言ってくれたり、「何かやるときには何かを手放さなきゃいけない」というトレードオフのようなことをおっしゃる人が多いですが、僕はこの生活をしてみて全くそんなことはないなと思いました。もちろん何かを得るためには何かを手放す必要はありますが、その思考すらも手放したらいいんじゃないかと思います。全部やればできるし、やりたかったらやればいいんだと思います。全部やるにはどうすればいいかという問いを立てて、行動すれば必ず解は出てきます。
僕の元にコーチングを受けたいと言って来てくださる方は、やりたいことがたくさんある好奇心旺盛なタイプの人が多いです。そういう人が仕事だけでなく、趣味や旅行などもやると決めた途端、表情が変わります。めちゃくちゃ表情が明るくなります。ですよね!!めっちゃ分かりますよ!!仕事もバチバチ頑張ればいいし、趣味も全力でやればいいし、海外で起業したければすればいいと思います。そういう仲間をどんどん増やしていきたいと心から思っていますので、僕も体現し続けるし、もっとこれから質も量も高めていこうと思っています!!
現在とこれから
・で、今は何してんの
さあ、現在です。現在はアメリカユタ州に住んでいます。僕がアメリカに来た一番の理由は、ゴールのために僕自身がグローバルに大活躍している必要があると思ったからです。「グローバルに活躍する人を増やしたい」と言っておきながら、自分がグローバルで活躍していないと説得力がないし、言葉が軽くなってしまう感覚がありました。だから僕はこっちに来て、起業家のコミュニティに属していて、アメリカの起業家の人たちと一緒に自分の新規事業について考えたり進めたりしています。
正直わからないことしかありません。でもだからやるんです。それをやるためにアメリカに来ました。物価も高いですし、僕の今の事業では円を稼ぐことがほとんどなので、金銭的にもマジでヤバイです。でもだからやるんです。そうやって困っている人や一歩を踏み出せない人が多いから、僕が飛び込むんです。僕には失うものは何もないんですから、先頭を走って火の中に飛び込み道を作ります。「自分でもできる」ということを証明して人に勇気を与える。そんな人生を歩んでいきます。だからアメリカに来ました。
・起業家として
僕は日本が大好きです。だから「日本は終わった」みたいに言っている若者が増えているのはすごく寂しいです。元々、ECCの取締役だった社長さんのお家に行く機会があり、彼がこんなことを言っていました。「今の日本人の若者はナメ腐ってる。戦後、血のにじむような思いで日本を復興したおじいちゃんおばあちゃん世代の人たち、彼らは寝る間も惜しんで働いて今の日本を作ってきました。そうやって私たちが頑張った過去があって今があるのに、そこに感謝もせず、しまいには何も努力せずに『日本は終わった』なんて言っていたらあかん。」僕はこの言葉を聞いてハッとしました。僕も先人が作ってくれたこの住みやすい暖かな日本という国で、平和ボケしていたなと思います。ただ何もアクションをせずに、日本の未来を不安がったり「終わってる」なんて絶対に言ってはいけないと思いました。
日本を復興させてくれた先人、また戦争で戦った方々のことを思うと、休日にNetflixを見て寝て、Twitterで「日本は終わった」とつぶやいている日本の若者を見たらどう思うだろうと思いました。 「自分は頑張りたくない」と言う方もいると思いますが、僕はそういう方に対して無理に動けとは全く思いません。ただ僕は、自分の命を社会のために使いたいと思っています。だからこそ、これから海外で働ける人をもっと増やすためのスクール事業を展開していきます。
具体的には、海外のフリーランスプラットフォームをみんなで攻略し、英語を使って実際に仕事をし、英語力もスキルも磨きつつ、外貨を稼ぐということを進めていきます。また、アメリカやフィリピン、タイなどの企業様とつながっており、企業との実際の案件やインターンができる仕組みを作っています。英語の勉強を頑張ってきた人たちが、オンラインで実際に英語を使って仕事をする舞台を今作っています。その中で大活躍する人が増えるのも嬉しいですし、さらにそこから飛び出て、実際に海外に住んでみたり、海外で起業したり、海外で就職したり留学に行ってさらに学びを深めたり、そういう人をどんどん輩出するプラットフォームを世の中にどどんっと提供します!8月から走っていくので興味ある方は仲間になってください🤝
・言語学者として
言語学者としては、まず英語の勉強をもう一度やり直しています。特にアカデミックライティングの部分です。これに関してはやり直しているというより、もはや初めてやっているという感じです。英語の先生なのに全然やったことがなかったです。だから毎日机に向かっています。大量に英語での読書やライティングをしています。今は既にイギリスの言語学部の大学院を卒業された方をメンターにつけてやっています。自分のゴール達成のために最も有効な手段だと思っています。現在IELTSがスコア7.0なので、今年中に8.0まで上げます。そして、多言語習得することの面白さ、脳に与える影響、日本で多言語習得をするための環境セッティング等について探求を進めて参ります。 子供の頃からなんとなくかっこいいなぁと思っていた英語、大暴れしていた子供の頃の僕を救ってくれたコミュニケーション、アメリカやスペイン、様々な国を旅して気づいた言語の重要性や面白さ、そういったものをちゃんと根拠を持って伝えられるような人間になります。だから大学院進学を目指します。大学受験に2度失敗した僕でも、アカデミックな世界を全く知らない僕でも、ゴールを掲げて飛び込んでいくと、その状態になれるというのを証明し続けます。
・プロコーチとして
最後にコーチとしての僕の気持ちを書きます。僕はもともと閉鎖的な社会に辟易としていました。とにかく狭かったです。生きている世界の狭さに絶望していました。大学受験に失敗したら人生終わりとか、この会社でうまくいかなかったら人生終わりとか、この部活をやめたら人生終わりとか、そんなふうに考えていました。でもいろんな国を回っていろんな人たちの生き方を見ていると、そんなのは世界全体で見たときの点でしかないことがわかりました。「自分はちっぽけな存在だ。だからこそ何をやってもいい。」という思考になれるようになりました。この世界は生きやすいし、息がしやすいです。 僕と同じように、日本社会、属するコミュニティなど狭い世界に嫌気がさしている方、もっと生きる世界を広げたい方、そういう方に対してコーチングセッションを提供しています。だからこそ僕自身が生きていく世界を広げ、自分の可能性を解放をし続け、生きていきます。
最後に
最後になります。ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
ノートの初めの方を読んでいた人は「ちょっと暗いなぁ」と思ったかもしれません。でも本当にそうなんです。嘘偽りなく、僕の人生は薄暗い世界から始まり、挫折の連続でした。ほとんど人生うまくいったことがなかったと思います。今も人生がうまくいっているかと言われるとわからないですが、一つ言えることは毎日が超ハッピーです。(なんかアホみたいだな)
でも、本当に必死こいて生きていて良かったなと思います!!
まだ28歳、もう28歳という感じですが、ここまで振り返ってめっちゃ大切だったことはとにかく歩みを止めなかったということが大きかったと思います。ふてくされて挑戦を止めてもいい理由はたくさんありましたが、止めませんでした。止めたくなかったのです。一度も自分の人生の舵を取らずに死んでいく、そんな一生は絶対に歩みたくない。死んでも嫌だ!!!!
そう思いませんか!!!!!!!ですよね!!!!!!!(無理やりぃ!!)
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こんな僕ですが、何かを相談したい、とりあえず話したいと思ってくれた方はラインからご連絡ください。全部ちゃんと真心込めて返信します🫶
そして、このnoteがあなたの本音を、可能性を解放するきっかけになれば幸いです。
さぁ、本音の自分に会いに行きましょう。
解放っ!!!!!!!!!!
KAIHO合同会社 代表 井上真登
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