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頻繁に患者さんが亡くなる中、気持ちの整理はどうしていましたか?

H30.10.14
大学(母校)のサークルOB会で、終末期リハについて話す機会がありました。その時に、頂いたが答えられなかった質問に、ここで回答します。
(*僕の経験だけの話しです)

じゃ、行きましょう。

頻繁に患者さんが亡くなる中
気持ちの整理はどうしていましたか?

難しい質問です。

答えから行きましょう。
まず、慣れていきます(そんな感覚になります)。
いや、慣れた気がしていきます。

1週間に1人くらい亡くなりますからね…。
少なくとも1ヶ月に1人は亡くなってたんじゃないでしょうか。
1年半しか働いていないですが、両手で数え切れなくなったのは働き始めてすぐだったことを覚えています。

そして、入院してから長い人は数年、十数年といらっしゃいますが、数日や数ヶ月で亡くなる方もたくさんいます。

何がいいたいかというと、どんな人なのか、どんな人生を歩んでこられたのか、家族とはどんな関係性なのか、何が好きで、どんな仕事をしてきたのか、など、何もわからない・知らない状態で、亡くなるのです。

もう少し詳しく話します。
自分のおじいちゃんでも、おじいちゃんと過ごした体験や記憶がなければ、他人がなくなったのとそう変わらず、悲しさも湧いてこないかもしれませんね。

そんな状態がずっと続く感じかもしれません。

名前と年齢と疾患しか知らない状態で、理学療法が処方され、理学療法を実施します。
例えばですが、患者さんは、意思疎通がとれない状態かもしれません。
意識レベルが低くて会話はできないかもしれません。
認知症が進行していて、会話はままならないかもしれません。
自分では動くことができないかもしれません。

それでも、その人らしさを探して、適刺激を探してリハビリテーション理学療法を実施していくわけです。

中には、家族の協力やアセスメントが功を奏し、患者さんの好きなことや患者さんらしさを作ってきた趣味や習慣を発見し、それを通して、うまく関われることがあります。

それを積み重ねていくと、やっぱり

◯◯さんに何ができるか?
残された余生をどうのように過ごして欲しいか?
自分だったらどう関わって欲しいか。
家族の望みはなにか。
患者さん自身は、どう生き、どう死にたいのか?

など、考えることが増えていきます。
愛着が湧いてくるっていうんでしょうか…。

そうして、思い出や体験を共にした人が亡くなると、やはり悲しさはあります。悲しさというか無力感でしょうか。

命が尽きるときに、医療者(医師・看護師・リハ職・薬剤師など)や介護者含め、誰もが無力なのです…。

頭では理解していたつもりでも、なにもできなかった自分を責めてしまうことがあります。

これはもう物事の捉え方の問題ですから、うまくやっていくしかなないでしょう。
できたことしか見ないでもいいですし…。
できなかったことを・十字架を背負って、進んでいくのもよし…。

ただ、一つ言えることは
めぐみ在宅クリニックの小沢竹俊さんも言われていますが、

誰かの支えになろうとする人こそ
一番、支えを必要としています。

ってことです。

僕は1年半でメンタルが崩壊してしまいました。
これについては、ここでは言及しませんが、もう少し自分に潜ってその時の何が苦しかったのか、苦しみながらも見つめに、見つけに行きたいと思っています。

ただ、僕は一番支えを必要としていて、僕の心は「たすけてくれー!」って叫んでいたのに、無視していた自分がいたということでしょう。

ここまで書いて、思ったんですが、人の死に僕はなれることなどできなかった…そんな感じですね。
気持ちの整理ができてなかったのかもしれません

今でも、関わらせていただいた患者さんの顔を思い浮かべることができます。

これに関しては、言語化するにあたって、もう少し考える時間が必要そうです。

これ、すごく勉強になりますよ。
http://www.megumizaitaku.jp/dat/pdf/2.pdf

以上になります。

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まさまさ(佐々木将人)
サポートありがとうございます。 あなたのそのお気持ちのおかげでnoteを続けてこれました。 去年は1年で120本…みなさんのおかげです。これからも誰かに届く文章をかいていきたいです。