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小話(7) おわりは別のはじまり

「おわり」が別の「はじまり」の源泉となる。

プロローグ


 ある読書会で、星野道夫の話をした。

 それを聞いた人が小寺卓矢さんと星野さんにまつわる記事を知らせてくれた。とにかくいい話だった。

 中身はぜひwebを読んで欲しいが、私は感動するとともにドミニク・チェンさんの「未来をつくる言葉」の冒頭の文章を思い出した。

ドミニク・チェンさん、「未来をつくる言葉」より

生まれてはじめて他者と言葉を交わし、見知らぬ場所に足を踏み入れ、恋に落ちるー無数の「はじめて」を経てもなお、わたしたちが世界を知り尽くすことはない。それは、ただ世界が広大だから、というだけではない。常に「おわり」が別の「はじまり」の源泉となり、その繰り返しの度に新しい言葉が生まれるからだ。

未来をつくる言葉  ドミニク・チェン


おわりはなにかのはじまりとなり、そして繰り返される

 星野道夫にカメラを勧められ、星野道夫の死を知り、写真家の覚悟をした小寺さん。その写真のテーマは、生きることと死ぬこと。朽ちた木に胞子を宿す菌類や苔類を映した森の写真。

 何かのおわりは常に何かの始まりとなり、それが循環していく。

 若き日に星野道夫に出会い、託されたNikonの写真機もその象徴の一つだ。私の勝手な想像だけど、小寺さんは、日本に帰ったらボディから買うことや、写真家をやりますという言葉を決して重い気持ちで吐いたわけではないと思うが、思いもよらぬ写真機のプレゼントに、きっと決意を新たにしたと思う。
 星野の所有物としてのNikon機のおわりは、小寺青年のはじまりに。

 余談だが、星野も小寺さんに写真家になってもらうために譲ったわけではなく、若きアラスカへの来訪者への単なる歓待のプレゼントだったのではないかと思う。しかし、小寺青年にとっては、写真家になるためのチケットになった。こういう誤読や誤配も、たまらなく素敵だ。

エピローグ


 10月に定年退職者の感謝状授与式がある。なんとなく、30年以上勤めた事実が重すぎて、送り手側としてどんな言葉をかけていいか、どんな顔すればいいか、わからず参加することが億劫になる。式自体もこんなにあっさり(4,5人で20分程度)でいいのかと罪悪感すら感じる。

 おわりはつぎのはじまり。感謝状授与式や壮行会は、儀式であり、そのひとたちのおわりを引き継ぎ僕たちがなにかをはじめることが本当の感謝になるのではと思った。その人たちは会社を終えることで、何かをはじめるのだろう。そのおわりを祝し、はじまりにエールを送ることが壮行なのだろう。

 おわりを何か物悲しいととらえていましたが、この記事を読んで決してそれだけではない、あたらしいはじまりでもあるのだ、と思った。

 感謝状授与式では、手が赤くはれるくらい、手を叩こう。そして、僕もだれかにNikonの写真機を手渡そう。






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