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ションベンカーブ 01

俺が風俗の業界に入ったのは大学一年生のときだ。高校二年の夏の甲子園予選を終えた時点で、幾つかのノンプロ、大学が俺に興味を示していた。都市対抗で全国制覇の経験のある地元の大手企業や関西六大学の加盟大学だ。

俺はそんな湿気たことはいわずに、三年の夏に甲子園に出場して、かつ活躍して、一気にプロ野球への道を真面目に描いていた。甲子園なんかに出た日には地元のスターで、左団扇で女も寄ってくる。新聞は読まないけど、全国紙が俺の活躍を掲載する。

キー局の美人アナウンサーが俺目当てで取材にやってくる。卓球やハンドボールや軟式野球の全国大会風情では、こうはいかない。高野連に加入した高校野球の全国大会、甲子園は別格で、すべてにおいて特別待遇で、たかだが高校生のクソ部活なのに、日本全国が注目する。

野球以外なんの取柄もなくて、身体のデカさと態度のデカさで学校にのさばっている、眉毛がつんつるてんの半極道のクソ高校生の、一挙手一投足を美化してくれる。

俺が進学した高校は、公立としては強豪校で、ここ数年ベスト一六辺りまでは必ず顔を出す。甲子園でも名の知れた私学からスカウトもきたが、セレクションを受けることが面倒くさかった。何よりこの高校は家から近くて便利だったのだ。

二年の夏に成元旋風を巻き起こした俺は、だいぶ勘違いが始まっていたし、成元が三年になる年は悲願の甲子園初出場、と周囲も憚らず口にした。ちょっと頭の弱い女子高生は、地方紙で散々一面を飾った俺が誘えば、だいたいやらせてくれた。

監督には婦女暴行と妊娠沙汰は絶対に起こすなといわれた。裏を返せば、面倒を起こさなければてきとうに遊んでもいいというお墨付きを得たのだ。県大会準優勝でこの扱いなのだから、俺は甲子園に出たかった。甲子園に出て、スター街道を爆進したかったのだ。

しかし秋季大会は、ベスト一六であっさり三下に負けた。右肩の違和感が消えなくて、真っ直ぐが伸びなくなっていた。真っ直ぐがお辞儀をして、勢い良く捕手のミットに収まることが少なくなっていた。

調子が悪いこともあるし、仕方ないと思っていたが念のため医者に行くと、右肩の炎症を指摘された。厳密にいうと肩腱板損傷ということだった。医者は痛みが出ているはずだといったが、監督も同席していたので、何ともないといい切った。

確かにひと試合投げきると、どれだけ丁寧にアイシングしても、翌日は酷い痛みがした。中学の頃から考えると年々酷くなっていたが、投球とはこういうものだと思っていたし、痛みについてそれほどシリアスに受け止めていなかった。でも最近では、野球以外の日常でも肩を回すとごりごりと関節から変な音がした。

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