僕の家は地デジ化できなかった
僕の母はテレビ反対派で、僕が小さい時からテレビの報道やバラエティの雰囲気に懐疑的だった。
僕はお笑い番組やドラマは好きだったから普通によく見ていた。
めちゃイケやレッドカーペット、ライアーゲームなど、食い入るように番組を見て、次の日には学校で友達とテレビの話題で盛り上がっていた。
転機は2011年の7月に訪れる。
「地デジ化」の到来である。
アナログ放送が終了し、地上デジタル放送に移行するため、
特定のアンテナかテレビを買い替えないとテレビ見れなくなりますよ、というやつだ。
僕の家は山深い田舎にあり、そもそも買い替えてもテレビの電波が届かないかも、みたいな噂が流れていた。
そもそもテレビ反対派だった母は、もうテレビは買わない、と宣言した。
僕の家はあまり裕福ではなく、母の意見に反論はできなかった。
僕は絶望した。
僕は当時中学生で、最寄りのスーパーすら車で30分というド田舎に住んでいたから、とにかく娯楽に飢えていた。
テレビが無くなったら楽しみのバラエティもドラマもアニメも観れない。
僕はテレビを買ってくれない親、電波が届かないかもしれない居住区、
そして地デジ化のムーブメント、それ自体を憎んだ。
なんでわざわざ電波を変えて、テレビを買い替えさせるんだ、ふざけるな!ぐらいに思っていた。
ただし、一縷の希望もあった。
その年にあった大規模災害の被災地を対象に、アナログ放送を継続することがニュースで発表されており、
他の地デジの電波が届かない地域も継続してアナログ放送を流すのではないか、という噂が流れていたのだ。
田舎すぎてソースが噂しかなかったが、中学生の僕はこれに縋った。
もしかしたら地デジ化が終了しても、継続してテレビは見れるのではないか。
期待と不安が入り混じりながら、アナログ放送終了の日が近づいていた。
2011年7月24日。
その日は夏休みに入ってすぐの日曜日だった。
アナログ放送が終了するのは昼の12:00の予定で、
僕は父と一緒にアンパンを食べながら、
テレビの前で正座をして、
運命の瞬間を待っていた。
アッコにおまかせ! ではアナログ放送58年の歴史、という特集が組まれており、
これまでのテレビの歴史をスタジオで振り返っていた。
皆異様にテンションが高く、華々しい雰囲気に僕はイラついていた。
こっちは未来永劫テレビが映らなくなるかもしれないんだぞ、と思っていた。
そんな僕の焦りはテレビの向こうには届かず、セレモニー感のある仰々しい演出で30分にわたる特集が終わった。
そして運命の時は来た。
テレビの向こうでアッコが叫ぶ。
「さあーアナログ放送終了まであと10秒!!」
テレビを見つめる僕と父の顔が強張る。
続くのか、終わるのか、どっちだ。
「9!」
「8!」
「7!」
「6!」
カウントダウンが続く。
緊張がマックスに達する。
頼む、終わらないでくれ。
「5!」
「4!」
「3!」
テレビが無くなったら、
この長い夏休み、何を楽しみにすればいい。
まだ最終回を迎えていないドラマもある、
楽しみなバラエティもある。
頼む、奇跡起こってくれ。
「2!」
「1プーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
耳障りな電子音とともに、カウントダウン1を聞き終わる寸前に画面が切り替わる。
ブルースクリーンに白い文字で、
「アナログ放送は終了いたしました」
という無機質で冷徹な画面が映し出されていた。
しばらくの間、テレビを正座で見ていた2人だけの部屋に、
青い画面の光が反射していた。
僕は何も言えず、食べかけのアンパンを力なく皿に置いた。
父も何も言わず、黙ってどこかに出て行った。
誰も何も言わなかった。
テレビは変わりなく、青い画面のままだった。
セミが鳴いていた。
僕の家は地デジ化できなかった。
その後、僕の実家ではラジオが重要な情報ソースになった。
ネット回線もテレビもスマホも無い僕はゲームをひたすらやっていた。
数年後、僕は1人暮らしを初めて、やっと自分の部屋にテレビを置いた。
いつでもテレビが見られるという事実は僕にとってとても幸せなことだった。
今はTverやYoutubeもあり、テレビが無くても困らない状況だろう。
ただあの当時、田舎で娯楽も無く、テレビが家の中で一番面白い存在だったあの頃に、テレビが見れなくなった中学生の悲しみは、
日本全国探してもあまり共感してもらえないかもしれない。
当時のクラスメイトでさえ、地デジ化できなかった人なんていなかった。
もし、全く同じ状況だった、という人がいたら喋ってみたい。
本当に当時の熱量で、思いの丈をぶつけ合える気がする。