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<下流老人 Life Wreck> 朝寝して、温暖化を憂い、新時代を夢想する

 今日は寝坊をした。
 七時に目が覚めたのだけれど、そこから二度寝して気づいたときは九時半。何なのかと言えばこれは「涼しい記念」だ。
 エアコンを使わないで室温が三十度以下になったのは、いったいいつ以来だろう。目が覚めても不快で二度寝など出来なかった。エアコンが入っていても、ぼくはあの冷房の不自然な冷気が嫌いで、やはり目が覚めてしまう。自然な涼しさ。この快感を記念して今日は朝寝イベントを「敢行」したのだ。
 窓際の温度計では二十六度台、一番奥の温度計でも二十八度台だった。これは台風通過の結果なので湿度は高いけれど、それでも快適だ、などと言っても、各地では台風被害も相当大きかったようで、喜んで言うべきことかとも迷う。
 それにしても、子どもの頃の夏はこのくらいが普通だったと思う。小学生の低学年の頃は、うちにはエアコンはもちろん扇風機も無かった。それは今より世の中が涼しかった、というより、ただうちが貧乏だったからだが。その後、家は引っ越したが、結局クーラーを初めて設置したのは一九九〇年代の後半だった。
 もちろんこの酷暑は地球温暖化の表れだ。われわれは人類存亡の危機の縁に立たされている。三~四十年前に今年の夏の状況を見たら、それこそ日本沈没かノストラダムスの大予言かと思ったことだろう。
 警告はそれより前からされていた。そうした警告を受けながら不作為という罪を犯した(犯し続けている)世界の指導者層は糾弾されるべきだと思う。
 地球温暖化の原因は今でも特定されていない。というより地学的レベルの問題は完全な実証実験が不可能であり、常に仮説に留まらざるを得ない。科学者は絶対という言葉を使えない。いったい今地球が温暖化に向かっているのか寒冷化に向かっているのかさえ、実は分からない。一般論で言えば現在地球は氷河期の中にある。その中で一時的に寒冷化が緩む時期、つまり間氷期にあるというのが常識的な見方だ。しかしもしかしたらもう氷河期は終わっているのかもしれない。ただその答えは数万年、数十万年後になってみなければ分からない。われわれは後ろ向きでジェットコースターに乗っているようなものだ。後ろを見ることが出来ても先のことは何も見えない。
 分かっているのは現在の状況として、一〇〇年~二〇〇年というごく短期間の間に地球表面温度が常識を越えた非常なスピードで高温化しているという事実だけである。それに歩調を合わせるかのように絶滅生物種が急速に増え、いわゆる大絶滅期にも入っている。
 様々な問題の相関関係は見える。それは単純な事実の突き合わせだからだ。だがその因果関係を立証することは大変困難だ。だから人類に出来るのは因果関係の立証を待つこと無く対処することだった。CO2排出が地球温暖化の原因かどうか分からないから、排出量削減政策は時期尚早だなどと言っていられる状況では無かった。痛いのであれば、その原因がすぐに特定できなくてもともかく痛み止めを処方する。発熱でも同じ。もちろん希なケースで対処薬が逆効果だったり副作用が出ることもある。だが地球温暖化ではCO2が温暖化ガスであることははっきりしているのだから、CO2抑制策に効果があることは自明だっだ。原因を云々している間に、まずCO2排出を止めるべきだった。そうした対応策をネグレクトした指導層の罪は大きい。
 とは言え、温暖化対策と言われる施策の多くにも問題がある。日本政府は温暖化対策と称して原発推進を掲げるようになったが、原子力にはそれこそ人類を死に追いやるほどの副作用がある。事故が起きないとしても核廃棄物は何万年、何百万年の単位で未来の人類の生存を脅かすことになる。
 いわゆるクリーンエネルギーというのにも問題はある。たとえば太陽光。太陽光パネルには寿命があり、その廃棄物は新たな環境汚染物質となる。設置場所、設置方法によっては土砂災害の原因になったり、植生や生物環境に打撃を与える可能性もあり、反射光が生態系や住環境に悪影響を与えることもある。
 風力発電は主に渡り鳥の大量死の原因になるとも言われ、地熱発電開発ではこのところ有害物質の噴出・拡散や騒音被害などの事故が続いている。水素も生産過程では温暖化ガスを排出してしまう。
 一言で言えば温暖化だけをきれいに止める魔法は無いし、技術革新は一朝一夕には進まない。一方で完全に遅れてしまった対温暖化体制ではもう間に合わないところまで来てしまった。
 ただひとつだけ言いたいのは、最も基本で、人類文明の初期からあったと思われる核心的対応策について、ほとんどの人が口にしないことだ。
 それは「欲を捨てる」ということである。
 世界中のほとんどの宗教や倫理においては、過大な欲をかくな、隣人と分け合え、と教えていると思う。それはおそらく長い人類史の中で人類が生き残っていくために特に重要な事柄だったからだろう。生産性の低い時代に社会を維持していくためには、自分のことだけを考えるのではなく、少ない物資、資源を皆で分け合うことが必要だったのだ。それは現代でも全く同じである。国連が提唱するSDGsとはまさにその現代版に他ならない。
 しかしそこに欠けていることがある。一番の問題は新しい技術を開発・導入することより先に、まず総生産量を減らすことでは無いのか。魔法は無い。経済発展と温暖化対策を両立させること自体がそもそも無理なのではないのか。
 これは誰も否定しないと思うが、CO2の排出量が急激に増加したのは産業革命以後のことだ。近代は人類史上最も激しく大気中にCO2が放出された時期だろう。もちろんそれと平行して人類の富は爆発的に増大した。それまでの人類なら数百万年、数万年、数千年かけなければ出来なかった進歩を、たった百年単位、数十年単位で達成するようになったのだ。
 しかし、残念ながらそれは、地球環境とヒト属のキャパシティを超えてしまったのだと言うしかない。人類は無理をしすぎたのである。ヒトの限界を超えて活躍するスポーツ選手はしばしば大きな怪我をする。怪我をすれば復帰までに長い時間がかかったり、時には引退、死んでしまうことさえある。今や人類全体がそんなリスクを負ったのではないのだろうか。
 もうペースダウンするしか無い。立ち止まるしか無い。欲望を捨てて経済活動を抑制し、生産を抑制し、環境負荷要因を劇的に減らすしか無い。だが…。
 おそらく世界の指導者層たちが温暖化対策を長年にわたってネグレクトしてきた表向きの理由には、「副作用」として世界経済の低迷を回避するためというものがあっただろう。そして現代人の多くが経済の停滞や後退を「死に向かう病」だと信じている。それは本当なのか。
 世界には常に飢餓線上にいる絶対的貧困の人々が数え切れないほど存在する。日本でも必要な食事・栄養さえとれない人々がいる。これは文字通り死の病だと言えよう。その一方で高級食材でグルメを満喫する人たちもいる。この絶望的な落差は経済が発展していけば解消されることなのか。まだ人類はそれだけの経済発展を遂げていないのか。残念ながらそんなことは無い。この構図は経済がどうなろうが変わらない。日本はずっと好景気だった。失われたウン十年などと言っている間、経済学的に言えば史上最高の好景気だったのだ。そしてその結果、むしろ格差は広がり続けた。
 いま世界中の富を平等に全人類に配分すれば、おそらく絶対的貧困は無くなる。ついでに紛争や犯罪も激減するだろう。それくらい、もう全人類は十分なほど経済成長を遂げていると思う。ただその代わり特権を持った富裕層になれる人もいなくなる。日本人のほとんどは今より貧乏になるだろう。(指導者層が温暖化対策をネグレクトしてきた裏の本音は、自分達の富の確保、別の言い方をすれば格差構造の維持だった。)平等化が進み、富裕層にのし上がることが出来なくなると仕事へのモチベーションが失われるという人も出てくるだろう。皆ががんばらなくなったら大変なことになるぞというかもしれない。
 だが、それがどうした。そもそも今カネを儲けている人、金儲けでモチベーションが上がる人はどんな仕事をしているのか。それは富裕層向け事業をしている人、娯楽産業の人、ブラック企業のオーナー、投資家、しかもその一部では無いか。本当に社会に必要とされている人たち、福祉や介護、医療、公教育、学術等々、さらに農業、漁業、工業の現場で実際に生産活動に携わっている人々の大半は、低賃金、定収入を余儀なくされているのが現実だ。それらの人々はたしかに生きるために仕方なく働いているのかもしれない。それは逆に言えばモチベーションを持たずとも現実の経済を支えている人々だとも言えるし、それでもなお使命感や達成感で働く人々は、カネとは違う基準でモチベーションを保っているのだとも言える。
 本当の社会はそういう人々によって成り立っているのでは無いのか。
 ソ連が破綻したのは社会主義で平等で働かなくても生きて行けたから誰も働くなったからだ、などという虚言を信じている人がいる。まさか、だ。ソ連は実際にはどうしようもない格差社会だった。そして官僚主義の指導層は特権をむさぼることだけに注力し、まともな経営などする気も能力も無く、無為に経済を崩壊させたのである。半社会主義的福祉国家である北欧やフランスを見ればわかる。それらの国の国民の大半は現在の日本人の大半よりずっと豊かかつ健全である。
 近代の最大の問題は、価値の基準をカネに据えていることにある。森羅万象をカネで換算する。つまりカネで換算できる仕組みががっちりと作られている。だから人間の価値もカネで換算するしか無い。プロ・スポーツ選手が普通なら生涯で使い切れないほどの収入を求めるのも、単にカネが欲しいからでは無いだろう。契約金の金額が、すなわち自分という人間の価値を示すからだ。
 われわれは生まれたときから近代=資本主義の社会の中で生きてきて、その価値観を骨の髄まで染みこませている。(それは「社会主義」を名乗っていたソ連や中国でも実は同じだった。マルクス主義自体が近代から生まれたものだったからかもしれない。)資本主義において、カネは人間を超えて人間を価値付け支配する神に他ならない。
 だから、われわれは経済(近代に成立した経済学が措定する「経済」)が成長しなければ人類が滅ぶと思うほどに、経済を信仰しているのである。
 人類史を省みれば、このようなカネ信仰、このような価値観が人類の普遍的価値観で無かったことはわかるはずだ。この価値観から自由になれれば、経済発展至上主義がいかにナンセンスなのかわかるはずだ。
 人類はいま時代を変えるべき時に来ている。近代はあまりにも巨大な正と負の遺産を生み出した。別にその歴史は否定されるものでは無い。われわれはその上に立って、その正と負を止揚する新しい時代を目指さねばならないというだけのことだ。経済に縛られるのでは無い、新たな価値観の時代を。その一歩として「貧乏」になる決意をしよう。人類の生産力を抑制し「経済発展」を止めよう。それは恐れるようなことでは無い。ただ人類が自分自身をコントロールし、長い人類史の教えの下に新しい価値観の社会を作っていくというだけのことなのだから。

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