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トルデジアン 2022 ⑥ レース編 (グレソニー〜ヴァルトロナンシュ)
トルデジアンもいよいよレース後半、セクション5となった。
セクション5は距離34.8km、獲得標高3,247mの「比較的」楽なセクションだ。もはや放棄しているAゴールではあるが、目安のために書くと12時間30分を設定タイムとしていた。
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モンテ・ローザとモンテ・チェルビーノ (マッターホルン) により近い。このコースも歩いてみたい。
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私はファーストウェーブなので、これより2時間早い。
グレソニーを22:51に出立。すぐに雨が降り始める。グレソニーの標高は1,329mとそれほど高くないため、寒くはない。しかし、コースはこれから、標高2,776mのCol Pinterまで一気にまで上がる。レインウェアを上下着込むことにする。
スキー場のゲレンデ傍の登山道を登っていく。ゲレンデ傍の登山道が急傾斜なのは、日本もイタリアも変わりはない。雨が止んだ。一気に体感温度が上昇し、汗だくとなる。レインウェアを脱ぐ。まだ暑い。ファイントラックのミッドレイヤー、そしてロングパンツも脱ぎ、半袖短パンとなる。やっと気持ち良くなる。
身体はまだまだ動く。このセクション最初のエイド、Rifugio Alpenzuの明かりが見えてきた。しかし、ここでいきなり日本の夕立のような豪雨が降り始める。雷鳴まで鳴り響いてくる。かなり近い。慌ててAlpenzu小屋に駆け込んだ。
小屋では、見覚えるタイ人の女性ランナーがいた。2019年、オロモントで関門アウトとなる前に何度もコースを前後した。オロモントの小屋で泣いていたのを覚えいている。彼女は英語を話さないのでコミュニケーションが取れないが、向こうも覚えているようだった。「Rain? Dry?」とウェアを指差しながら話しかけてくる。雨が止んだか聞いているようだった。外を見ると、雨足は弱まっていた。
小屋を出て歩き始める。霧が深くなってくる。数メートル先が見えない。
2019年の記憶がだんだんと蘇ってくる。この先は聳え立つような巨大なカールだ。「トルデジアンのコースにはホントにでかいカールがいっぱいあるな。日本に一個くれないかな」などと詮無いことを思う。日本にあれば間違いなく登山者が殺到するだろう。しかし、ここは放牧に使われ、牛がいるばかりだ。きっとローマ時代より昔から、ずっとそうなのだろう。
標高はみるみる森林限界を超える。遮るものがなくなり、強風に吹きさらされる。TORマーカーが見当たらなくなってくる。牛に食べられたのだろう。
先にいるランナーのヘッドライトの明かりからルートを推測し、周りのランナーと「こっちじゃないか。いや、あっちか」などと声を掛け合いながら進んだ。
突然、お腹が苦しくなってくる。腹痛ではない。強烈な膨満感だ。背筋を真っ直ぐにできない。身体を丸めて歩いた。しかし、あまりに苦しい。
「グレソニーでフルーツ食べ過ぎたか。それとも、その前のポレンタがよくなかったか。昨日4杯も食べたしな、そういえば」などと思い返す。
トレイルから外れ、休む。すると、後ろのランナーも一緒に止まる。
「I'm just taking a rest. Go ahead, please」と声を掛ける。すると、「Light..Small..」と返答がある。「ライト?小さい?」。よく見ると、ヘッドライトが暗い。マーキングも不確かだし、一緒に行きたいということか。
しかし、とにかく膨満感を解消したい。端的に言えば、おならがしたい。「I wanna take a rest. Go ahead」と繰り返すが「Light..Small..」と埒があかない。
突然、「トルデジアンになんでそんなへっぽこライトで来てんだ」と強烈な怒りを覚える。「I DON'T KNOW! GO AHEAD!!」と声を荒げてしまった。彼も諦めたのか、先に進んで行った。
いま思い返せば申し訳なかった。しかし、とにかくおならがしたかった。
お腹を何度も押す。しかし、全く効果がない。ガスピタンを持ってくるべきだった。
しょうがないのでまた歩き始めた。お腹に力が入れられないと、登りも力が入らない。風はもう暴風と言っていいレベルとなっていた。先頭にオレンジの風船みたいな人がいる。なんだろう、と思えば、身体に巻き付けたエマージェンシーシートが風で煽られ膨らんでいた。
ほうほうのていで峠に辿り着く。ここからは長く、急な下りだ。
やっと、おならが出そうだ。みんなパックとなって下りていくが、そこから外れソロで進んだ。そして、数時間下りた頃にやっと膨満感が解消できた。
気がつけば、眼下に街の灯がもう見えていた。標高はかなり下がったはずなのに、とにかく寒かった。川沿いの街だったからか、夜明け前の時間帯だったからか。
冷え切りながら、Champolucのエイドに入る。タイ人の女性ランナーは、テーブルに突っ伏して眠っていた。身体を暖めようと、角砂糖を何個も紅茶に入れ飲んだ。
日本人女性ランナーの伴さんもエイドに入ってきた。「寒くて眠くて、峠からの下りに何時間も彷徨った」とつらそうだ。「このエイドは奥が仮眠スペースになっているよ」と伝えると、すぐに睡眠に向かっていた。ちょうど一人分空いたところのようだった。
「自分もここで寝ていくか」と迷うが、もう夜が明けるので先に進むことにした。最初は順調に進む。しかし、街を抜けトレイルに入る頃には、案の定と言うべきか、眠くなりペースがガクンと落ちた。
次のエイド、Grand Tournalin小屋の手前で伴さんに抜かれる。しっかりとした足取りだった。「睡眠をどこで取るかって、ほんと難しいな。きっと自分の体力を過信し過ぎているんだろうな、俺」と思いながら小屋に到着した。
小屋でパスタを食べ(この小屋のパスタは絶品だった)、ベッドで眠ることにする。関門が気になるが、睡眠不足によるペースダウンの影響の方が大きそうだった。
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この日は朝から暖かく、絶好の日向ぼっこ日和だった。
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この小屋で寝たのは正解だった。みんな一つ手前のエイドで寝たのか、ベッドルームは貸切で、床ではなくベッドで静かに眠ることができた。
睡眠は1時間。深く眠れた実感があった。パスタをまた食べ、出発した。
小屋からCol di Nanaへの上り、そして眺望は最高だった。陳腐な表現だか、そうとしか言いようがなかった。今回のトルデジアンで一番の眺望はどこだったかと聞かれれば、間違いなくこのNana峠を挙げるだろう。
ちなみに、一番楽しかった上りは、同じこのセクションの膨満感に苦しんだ峠だ。
峠近くで日本人男性に追いつかれる。峠まで一緒に進む。そして、「最高ですね」と二人ともしばし峠で佇んだ。
峠からはジョグペースで進むことにする。彼は「ゆっくり歩いて行きますよ」とのことだった。
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子どもの頃に観ていた「母を訪ねて三千里」の影響か。
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峠を下り続け、街が近づく。すると、先ほどの日本人の彼が結構なスピードで駆け降りてきた。「レース後半で無理するでもなく、下りを走っているなんて凄いな」と感嘆した。
程なくヴァルトロナンシュのライフベースに着いた。2019年に関門アウトとなったオロモントのライフベースはこの次だった。「やっとここまで来れた」と思った。レース本番はこれからだった。
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なんだかゴールチック。
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英語メニューが壁に貼ってあった。
ライフベース到着は13:29。14時間38分の行動となった。レース開始から100時間が過ぎようとしていた。
次のセクション6は長く厳しい。このライフベースでは、しっかりと休憩を取ることにした。
スマホとGPSウォッチを充電、足を拭き取りJ1クリームを塗布、ビールと食事、睡眠、J1クリーム塗り直し、また食事。ルーティンワーク。もう慣れたものだった。
しかし、ここでキャップとサングラスをまとめて失くしてしまう。多目的トイレで身体を拭いた時か。もう判断力が落ちているので、ルーティン外のことをするとミスをする。
さいわい両方とも予備はある。忘れ物で届けられていないことを確認してから、ライフベースを出た。17:40。4時間11分の休憩だった。
(セクション6 ヴァルトロナンシュ〜オロモントへ続く)