20190914PFF『Gのレコンギスタ1』東京最速上映(於京橋 国立映画アーカイブ)
Gレコをここで上映してくれるとは……驚いてるし、呆れてもいる。しかし本当のことを言うと、あたりめーだろ(笑)と。上映が25年遅かった。巨大ロボットアニメを40年作ってきた甲斐があった。
発想力はどこから来るのか?
そのテーマに何も言えない。「映画」には恨みつらみしかない。それでやってきた。巨大ロボットアニメだって「映画」だ。しかし「アニメは映画ではない」と30年言われてきた。 長年、巨大ロボットアニメというジャンルでやってきた。こういうのは今の人には分からないと思うが。
ガンダムファン以外には認めてもらえているのか。巨大ロボットが出てきたら、もう「それ以下」なんです。CM でしかないと思われている。オンエアーが始まったらそう見られる。「富野由悠季の世界展」の学芸員はそうではないことを認めてくれていた。
(劇場版『Gレコ1』はテレビと同じOPだったが)オープニングはもう使いません。これからは映画らしいスタイルに変えます。
30年踏んづけられてきた。
しかし、だったらそこに特別なモノが与えられれば、「世界展」みたいなのやってくれる、と。(ロボットアニメの)そういう状況を利用した。認めてもらえるだろう、と。
(虫プロを離れて)テレビの CM の仕事をしていた時、仕事に本気になれなかった。どんなに優れていても、演出家は表に出れない。名前が出ないと本気になれない(笑)。テレビならば出る、認められるかもしれない、と計算をしていた。
では映画という様式・スタイルならば、と。おもちゃ屋が作品を作っているわけではないのだから。 しかし認めてくれたのはファンだけ。無視されてきた。(『ガンダム三部作』を作った後)オファーもなかった。実写の声がかかると思っていたのに。
まだまだ評価がファンの中のものでしかない。ルーカスの上に行ったと思われていない。ルーカスより仕事はいっぱいしているのに。
学生の頃のアイデアは仕事につながっていますか?
繋がっていない。大学時代はシナリオを書けという宿題は多かった。当時はプロパガンダかヤクザものみたいな実写ばかりだった。ドキュメントなら、と思ったが自分にはセンスが持てなかった。日和見の人でしかなかった。調査をすることができない、出来の悪い学生でした。当時行われていた原水爆禁止運動みたいな社会運動も傍観者として見ていた。4年生の時に大江健三郎の『広島ノート』を見た。広島で同じものを見ていたのにこういうまとめ方ができる、というセンスが自分には無かった。当時もう虫プロに入っていたが、大江健三郎の才能への敗北を感じて、鉄腕アトム作るしかなかった自分。現実を受け止める自分を天才と思えるわけがなかった。
結局、反核運動は分裂して消えていったのだが、これを当事者に聞きに行くぐらいのフットワーク、カメラを突っ込んで行く気力・胆力がなかった。
それで、アニメでよかったと思ってしまった。アニメの仕事は外に行く必要がない。楽だなと思っていた。
大学の勉強はできなかった。それ以前も勉強もできていなく、致命傷だった。基礎学力がなかった。(虫プロで)仕事を始めても勉強はしませんでした。知っている手順だけです。映画作りの企画・制作・作画という根本は分かっていたから。
しかし上っ面でそれを作っていたが、SF の知識ではダメなんだ、アトムを出しておけばいいというものではない、というのが骨身にしみた。敵をセッティングする学力がないとダメ。社会問題を取り上げて敵を設定するするというドラマツルギーがなかった。
手塚治虫に聞くこともなかった。一応、シナリオチェックしてもらうのだけど見てもらえてないのかわかる。最初のシナリオ、コンテを描いて持っていったら「これで行きましょう」と言われた。
切羽詰まっていないと作れない。とにかく SF の 知識を駆使して思い出して何とかまとめる。オンエアされたらこっちのもんだから。
しかし、そうやってやってきたから、それが無くなった時焦る。そういう時は他の仕事の下請けに逃げる。原作があるもののコンテを切って逃げる。
コンテは技術論です。だから凌げた命拾いできた。知識のオリジナルは高校まで。50年代・60年代の SF 映画は全て観ました。といっても5、6本だけなのですが。それしかなかった。
そこで気づいたのは、監督が SF 好きだとつまらないということ。ディテールは面白いのだけどミニチュアものになってしまっている。ロケットが映るのが3カットくらい。ロケットが見たいのに最初と最後くらいしか出ない。我慢していた。飛んでるロケットが観たいのに最初だけ。
しかし、それを観ていると劇がいいものなら観れることに気づく。怪獣とかのバトルも、そのシーンは5分でいい。だからそこへ持っていく劇を魅せるもんなんだぞ、と言うのがわかった。ロボットがバトルをしても劇ではない。人がやる、人が出ないといけない。
西部劇が衰退してマカロニウエスタンが出てきて、ハリウッドからとは違う味付けで人気が出た。映画は時代で変わる。だから怪獣モノが受けるといっても名前を変えるだけで新しいものができると考えるのはいけない。
ガンダムの新しさは宇宙人を使わなかったこと。宇宙世紀という言い方がリアルに受け止められた。しかし(舞台設定としての)地球圏というのが手狭になると思っていた。異星人同時の恋愛なんてやったらダメ。そこにイデオンというデザインがおもちゃ会社から持ち込まれて(会場、笑)。それを使ってアイディアを作品として作った。
イデオンは作品と心中するつもりで作った。
全滅は最終手段。作家としてやっちゃいけないこと。しかし文明が対立したら全滅しかないよね、と最初の段階から考えていた。当時、アニメで仕事をしていけるのかという不安はあった。だから自殺する感覚でした。最後だもう作れない、と思って。
生き残る打算があったら、作れない作品。自分の血を見るくらいの覚悟でやっていた。作っているうちにシナリオライターとか変わる。フェードアウトするのは嫌だ、と。
今、生き延びたからそんなことが言える。かっこいいよね。そう思います。「富野展」があったので最近見直す機会が多かったのですが、あれはまともなら作れない。
死んでしまうまでに「刈り取り」はしたい。(『イデオン』くらいの作品を)死なないほどにやれれば、キューブリックみたいになれる。キューブリックみたいはできたいよね。けれど、自分はキューブリックと違って著作権はないし……(苦笑)。法人は持てないはずの著作権を「著作権を管理しています」ということにして法人が持っている。監督に著作権がないのは日本だけ。
脚本家にはシナリオライターの権利がある。脚本家の方が上位。演出家の方が下。監督名は出ない。松竹ヌーベルバーグの時に監督の主張はしなかった。会社は作ったけど、監督の名前を出すという事には行かなかった。監督がプロダクションを作って失敗していた。ハリウッドで前例はあった。黒澤明ぐらいの人がもっと言っていればよかった。
富野がいなければこの作品はなかったと思って見てもらいたい。
名作には監督がいる。脚本がよくても監督のせいでダメになる。『富野展』を OK したのはその意味もある。シナリオライターでは展示はできないだろうから。
監督の仕事が知られていない。脚本があればできると思われている。ドラマの監督は本の不備を補っているのじゃないかなと思う。テレビの環境は疑問。説明しづらいけど主義があって作ってる人は。カメラも違う。それは見てもらいたい。
「世界のクロサワ」という名前だけで語ろうとしている。カラーになったあとの黒澤明はひどいのにね。Gレコは、テレビを補っているがエンディングは同じ。しかし後半は違う。脚本・演出・コンテを全部自分でやってるからできる。全部今のままではない。良くなっているところは良くなっている。アニメーターの力です。よくここまでと驚いています。ディティールアップ。根本のところ。自分でもだめだと思っているところを補ってくれている。印象が違う。広い世界を見せるものになっています。
実写ではそれはできません。アニメの性能は作り直しができること。これは違う、と。セリフも変えられる。実写ではできない。少しできるようになったけど面倒くさい。昔から直すことはしているのだけど。実写にはそういうセンスがない。
ディレクターズカット版、時間の枠でやれなかった物を直したものがある。見たけども劇場のやつの方がいいよねと思う。(切ってしまった部分に)思い入れがあって入れるのはいいけど。『恐怖の報酬』も悪い。余分。両方を見てみんな判断して。撮影しているところや動画を見せられると略せなくなる。流れの中でここで切れるというのが切られていない。
詰めていく時、何十回も前後シーンまで見てカットを決める。実写も編集の人が作っている。岡本喜八は編集が好きなんだなと思う。動画の積み重ねで映画を作る。岡本監督は上質な監督です。『日本のいちばん長い日』は冗漫だけど。
黒澤はなまじじゃない。白黒時代は。世界を意識したらだらしなくなった。
動画に対して謙虚でないといけない。劣化していく。黒澤の周りが言わないといけないこと。自分も受け止めている。好きなもん(シーン)だけ撮ってもいけない。金とか自由にできると(そうなってしまう)。そこを謙虚に受け止める。 **
Gレコで若い人を入れたのデジタルの技術もあったけど(冗漫、CG多用、不必要なシーン満載の)『トランスフォーマー』みたいにしないぞ、ということでもあります。
世界で説明するための部分を足しただけで、物語を増やしてはいません。適当でやっていたところに「杭」を打った。これでやっと「映画」になった。制作進行が「良くなった」と言ってくれた(笑)。絵コンテを読み込んだら、「これは必要なシーンですね」。
アイーダとベルリの物語ですが、一目惚れして、アイーダの恋人を殺しちゃった、それで罪滅ぼしで最後まで行った、という物語ですが、その中で二人が姉弟という自覚をしたところが抜けていた。そこに気づいた。そこに制作も気づいてくれた。
世界の輪郭・肉付け、物語として語られるシーンを付け足した。(今までの)ガンダム世界と違うというのをハッキリ描いた。そこでガンダムファンを切り捨てています。
それを劇で示す。それをシーンで説明する。そこがうまくできたかなと。
(サンライズでは)自分は「神」なので、若い人が自分に対して言いたいことが言えなかった。そのことに気づいた。ウカツに富野と口を聞いたら殴る・叱られると思われていた。(実際にあったんですか?と聴かれて)蹴飛ばしたことはあったね(笑)。自惚れていたなあと。リーダーとしては示さないといけない。
黒沢が何でああなったんだろう、気を付けない大人にならないとと思う。
自分の作品を通して語る。それで世直しをしたい、と思っている(笑)。
方法論で示すことはできない問題。テーマとして掲げておく。
子供達が回答出してくれるかもしれない。例えば巨大ロボットが動いているのはおかしい、軌道エレベーターはできない、と。それを分かってもらいたい。
あれは技術者の夢想。(Gレコの)軌道エレベーターのデザインは嫌がらせです。当事者に見せつけている。技術者には想像力が根本的に無い。軌道エレベータのある高度7万 km まで物流ができるか?運ぶ物もないのに。理論としては優れていて連結することも考えているだろう。間に駅もない。だから作った。
ZOZO の前澤も月に行くなら千葉を助けろよ。
トイレを笑う奴がいるが、リアルに考えろよ。(太平洋戦争中の話で)パイロットスーツにうんこがついていたという。そこを考えないと巨大ロボットとかありえない。映画ではハイフン・スタッカートを1コーラス入れました(笑)。
Q、物語は何から作るのか?キャラクターからか?
アニメ学科キャラクター学科というものがあると聞いて、呆れている。ワンパターンにしかならない。一つの人格を造形する。ポジションに合う人を設定する。ステレオタイプにならないようにしないとならないけどできない。ラフを書いてもらって、そこから肉付けをしていく。それをストーリーライン載せていく。肉付けといってもおっぱいの大きさではないです(笑)。人間関係の中で可愛さが出てくる。絵から可愛いわけではない。同じサンライズだから言うけど、ラブライブみたいなのはダメ。みんな同じ顔。
Q、映画という言葉について
動画を重ねたものが映画。カットを繋げた瞬間、物語を繋げる。それが映画の面白さ。レトリック・比較・スローモーション。物語を伝える上で一番の媒体。動いてれば面白いのかと言うとそうではない。(最近は)プログラマを食べさせるために過剰に動かしている。スピルバーグでも同じ。それでは映画の観客に向けて作ってはいない。売りたいなら(マーケットの大きい)中国に向かって作ればいい。どこに向かって作ってるのか。公共に対してです。映画がプロパガンダだったこともある。製作者は公共に向けてというもの考えて。(個人に向けて作っている)ゲームとは違う。しかし資本の回収はやらないといけない。次に繋がらない、儲けないと困る。本当に儲けたければマーケットに向かって作ればいい。
Q、コンテ。新海誠はVコンテを作っているが
実写でもアニメのコンテがあるといい。実写ではコンテに準じないことも。監督はコンテ主義に陥ってはならない。60年代の映画にはそういうところがあった。夕立を利用した映画とか。明らかに急に降り出した夕立を利用して映画のシーンを撮り、挿入している。
新開誠のやり方は自分にはできない。デジタルの見え方とか。『天気の子』を見て四角四面ではなかった。全体の柔軟さ。やるなと思う。
Q、水は薬なの?
宇宙では水があまりない。これ以上行ったことのない自分には言えない(笑)。宇宙飛行士の毛利さんが宇宙では歌を聴くことが多い、と言っていた。人の声が気持ちいい。自分はあのセリフが気に入っています。
Q、いままでと違い目が丸いのは?
デザイナーが違うから(会場、爆笑)。そいつが今までのデザインが気に入らなかったから。
1/1ガンダムを見てきた。工場で。パーツが真っ平らだとカチンカチンに見える。曲面を想像できるようなものにしてもらいたいと言ってきた。最近は車でもR角が大きくなっている。改善されている。どっちが好きになるのかそれはあなたの判断です。
Q、(意味不明。今回の公開形態で子供にどれだけ伝わるか、みたいな)
どこまで伝わるかわからない。上手じゃない、だめだなぁという反省もある。芯が分かるのが少しでも出てきてくれたら、作品が40年・50年も保つ。そういううぬぼれがないとできない。自負はある。マーケットに媚びて「子供向けです」とは言っていない。だから七十歳過ぎても本気で作っていられる。手抜きはない。
見てくれとは言わない。作品の力が示すこと。50年後を見てくれ。現実の今に対して異議を唱えるのか Gレコ。女の子が可愛くない、いいじゃないか。世界の深さ・広さを意識しろ。科学技術に異議が言いたい。しかしアンサーは無い。だから考えなくてはいけない。真剣に。
目の黒いうちに次回作を作りたい。
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