2017年2月4日メカデザイナーズサミットVOL.5
コメンテーター
タツノコプロ特別顧問 笹川ひろし
スタジオぴえろ最高顧問 布川ゆうじ
メカデザイナー 大河原邦男
大河原「今までゲストはみんな年下だったけど、今回は私が一番若輩です」
笹川「大河原さんとは長くて深い付き合いですね」
布川「大河原さんとは学年が一コ先輩なだけ。生まれ年は一緒ですよ」
タツノコ創設
笹川 タツノコプロが出来たのは、アニメ業界で五番目くらいでした。『宇宙エース』が最初の作品(1965年)。それまでは吉田竜夫さんとみんなでマンガを書いていました。
自分は会津若松の生まれで、マンガが好きで手塚先生に絵を送っていたら、東京に出てきてアシスタントにならない、と誘われた。専属アシスタント第一号です。その後漫画家デビューして。当時週刊誌が出始めたころ(週刊少年マガジン・サンデーの創刊が1959年)。
で、その頃漫画を書いていた吉田竜夫と知り合って。当時からプロダクション制で漫画を作っていた。その様子を見て「これならアニメを作れる」と思ってね。自分も虫プロでアニメを見ていたから。鉄腕アトムのコンテを二本くらい切った経験もあったし。けど、それだけの経験でアニメに詳しい人、と思われるようになっちゃって。吉田さんも乗り気になってきちゃった。
最初は東映動画と共同で作ろう、という企画が立ち上がった。話と演出をタツノコでやって、動画は東映動画で作る、と。それから三ヶ月くらい東映動画に通ってアニメのノウハウを学んだ。けど結局、その企画はダメになってしまって、タツノコが引き取った。
元の漫画家に戻ろうかと思ったけど、アニメーターとして学んだ事を活かしたいと思っていたし、何より吉田竜夫が自分の生み出した「宇宙エース」をアニメにしたいと意気込んでいた。けど当時タツノコは5、6人しかいないから、私は無茶だって止めたんだ(笑)。なのに吉田さんは連載ドンドン断って。アニメを作りたい、って。
その頃、一度手塚先生に挨拶に行った。アニメやります、って言ったら口では賛成してるんだけど、目は「漫画書いて」と言っていた(笑)。当時同じ手塚先生のアシ出身の月岡貞夫さんもアニメのほうに行っていたから、笹川は漫画に残ってくれ、という気持ちだったんだと思う。
会社の創立は大変だった。全国に人の募集をかけて、国分寺にプレハブでスタジオを建てて。つい前までは自分が生徒だったのに、今度はアニメを教える側に回っていた。タツノコは商材がなかったから、まず15分のパイロットフィルムを作ろう、ということになった。けど動画用紙もないし、セルもない。机はどこから買ってきたらいいのか。そんな時代だった。応募してきてくれたのは70人くらいで、そこから30人くらいを採用した。でパイロット版「宇宙エース」を作り始めた。絵は出来ても撮影ができないから撮影所に行ってお願いして、映写機もないから、あれは借りてきたのか、古道具で見つけてきたのか……。
みんな、怖いもの知らずだからできたね。
で、やっと完成したんだけど、これがいくらセールスに行っても買ってもらえない。やっと決まったと思ったら、もうTV放送開始だから毎週新しい話を作らないといけない。よくそれから一年間放送したよ。でも、終了したらすぐに、次。もうその時代はカラーになっていたから、また大変。「エース」はモノクロだったから五色くらいでよかったんだけど、カラーだと100色くらい使う。で、マッハGOGOGO、ハクション大魔王。いなかっぺ大将は初の原作付きだった。そのころ、アニメの背景の絵を「美術」と呼び始めて。タツノコの美術部長は中村光毅さん。
大河原 私が入社したのは1972年で、タツノコ創立十周年でした。中村光毅さんのおかげでメカデザインに目覚めました。だから恩を感じています。中村さんはプロダクトデザインもできるくらいセンスのある人。たくさんのことを教えてもらいました。
布川 自分は師匠は笹川さんだと思っています。入社して手がけたのはカバトット(1971年~72年)。2分半くらいのアニメで、それを平日オビで流す。それが初演出。アニメーターもやりました。そのころのタツノコは笹川さんのギャグものと、九里一平さんのヒーローものの二枚看板だった。私はギャグ側。鳥海(永行)・笹川組でしたね。その後ぴえろ作った時も初作品は鳥海さんだった(『ニルスのふしぎな旅』1980年)。
笹川さんは視聴率をよく取っていたから「アニメ界の欽ちゃん」なんて呼ばれていた。だからたくさん学びました。どんどんギャグが出てくる。仕事への集中度は病気。あの頃の人は熱中度が違った。私が入った頃はまだアニメーションなんて言葉もなかったし、学校もなかった。私は映画が好きでグラフィックデザイナーになりたくて、偶然アニメの世界に入った、だから自分のアニメも距離を置いて見られる。入社したのはいつだったかなぁ(大河原「私より先輩ですよ」)。
虫プロで仕事をしていたときに「ゲバゲバ90分」見てギャグやりたいなあ、と思って。当時タツノコと創映社(現サンライズ)から誘われてたんだけど、だからタツノコを選んだ。創映選んでいたら、第二の富野由悠季くらいにはなれたかな(会場、笑)。
タイムボカン秘話
笹川 旅館を使って企画会議をやっていた。漫画を原作に使えばある程度ヒットを見込めるんだけど、オリジナルでしたらそれは難しい。けれど、原作ものはしたくなかった。自負があった。
社長・シナリオライター・デザイナーとか七人くらいで相模湖の旅館に飛び込みで入って。外から見てこの旅館がいいんじゃない、と。そこで企画を作った。それなりに素材は持っていったけど。けど旅館に荷物を置いて「じゃあ散歩でも行こうか」。帰ってきてメシを食べたら酒が出てきて。それから一風呂浴びて12時くらいになってから、やっと会議を始める。こんなのをよくやってたね(中村光毅さんはお酒が飲めず、早く会議を始めたがっていた)。
けど、散歩したり風呂に入って雑談したりしながら考えていたんですよ。よかったんです。会社に三日くらい出てくると言って出発して、三日目には企画が出来ている。設定も絵もメモ書きができていた。だからどんな企画も一週間くらいあればできていたね。
布川 私はヤッターマンから相模湖合宿に初参加でした。飲みながら、ね。吉田さんも九里さんも企画作らなきゃ帰れないし、絵を作らないといけない。けど、それぞれがバラバラのイメージを持っているのが形になるからよかった。タイムボカンのイメージが決まったのは、三悪トリオが声を入れた時でしたね。あの三悪が中心になってシリーズを作ることに決まった。
大河原 私が入った時は150人くらいの規模の会社になっていた。みんな20~30代。笹川さんも30半ば。タツノコではアニメの全ての過程を学ぶことができた。でも給料が安かったから、布川さんも他のプロダクションのバイトをしたり。学んだことを使って。でも、タイムボカンはお金もらわなくても楽しい仕事でした。
(大河原さん所蔵のタツノコ社員旅行の写真。布川さんの隣りには、当時布川さんの下で働いていた秋本治(『こち亀』作者)の姿もある)
旅行の幹事はよく布川さんがやってくれてました。他のプロダクションでアルバイトをするときの幹事まで(笑)。スタジオぴえろを作った時は、そうしてタツノコからスタッフを引き抜いていった。なんで私は誘わなかったの?(布川「そういうタイプの作品は作らないから!」)
大河原さんはその後、1990年にぴえろ製作『からくり剣豪伝ムサシロード』で一緒に仕事をする
笹川 72年には『タイムボカン』のパイロットフィルムはできていたんです。冒険もので、タイムトラベルしながらSFで、ギャグ。だけどセールスが上手くいかなかった。決まらなかったらお蔵入り。そうして三年もほっておかれた。あのスキャニメイトが悪かったのかな。理解してもらえなかった。けど不思議なことにいきなり玩具会社のタカトクが買ってくれた。で放送開始したら一年やっても視聴率が落ちなくて、じゃあシリーズと付けて三悪だけ残して、メカ・タイムトラベル・アクションで7作9年も続くシリーズになった。
主役メカはOPに出てくるテントウキを予定していたけど、色々タイムマシンのデザインを作っているときに、スタジオに使っていたプレハブの窓からカブトムシが飛び込んできて。それを掴んだ中村光毅さんが「これだ!」って(笑)。メカブトンができたら、あとは次々できたね。
カブトムシを掴んで「これだ!」
けど、長く続けるとネタがなくなってきて……大巨神(『ヤットデタマン』)を出したときは玩具会社は喜んでくれたね。企画会議で虫も動物も出したし、次はどうしようかな、となっていた時に、(タカトクの担当が)「そろそろ人型を……」。ずっと言い出したかったんだろうね。やっぱり人型は売れるから。それで人型にOKして、大河原さんに丸投げして。大河原さんならなんとかいいデザインにしてくれるだろう、って。そうしたら、大馬神に変形する仕組みを木型で作ってきてくれて。それがカッコよかったから、次のタカトクの社長さん同席の会議に持ち込んで。けど最初は大河原さんのデザイン絵だけ見せた。そうしたら社長さんの目の色が変わって。そこで木型で追い打ちをかけたら、社長、その場でデザイン絵を部下に渡して「これを箱絵にしろ」(笑)。
↑このおもちゃはタカトク製ではありません
『ヤットデタマン』くらいになると、もうタイトルも出てこない。会議もタイトル決めるだけの会議を延々とやって。それでも決まらないから一旦切り上げて、家に帰ったら出てきたのが「ヤットデタマン」。勿論、やっと出てきたから。それを会議に出したら、大不評(布川「タイトルつけるのは本当に難しい」)。けど、「本当にピンチになったときに出てきてくれるから」と後から理由を付けて。それから歌もできちゃったし、言ってみるもんだね。
タツノコの子たち
笹川 ヤッターマンあたりになると、同時に三作品くらい作り始める。そうなると外注も増えるし、社員も増えてくる。けどそれでも足りないから、新人に演出をやってもらうようになる。その頃にはタツノコも有名になって、大学出の人がいっぱい入ってきて。中でもうえだひでひと、西久保瑞穂、真下耕一には卒業前からスタジオに来てもらって。そして押井守が入ってくる。
彼等にはまずタツノコの作ってきたフィルムを見てもらった。彼等は別にアニメを触って育ってきたわけではないから、大喜びで。それでこの四人を競わせて演出をさせた。できた作品は試写室で全員で見る。社長もいる。だから被告人だよ。凄く緊張するだろうし。それで見終わってから批評する。こういうことをやらないとダメだよね。そうやって育てたのだけど、彼等を指導していたのは鬼軍曹の布川さん。こうして四人の新人が戦力になった。
布川 当時タツノコで労使問題が巻き起こって、人がたくさん辞めた。私は残ったんだけど、増やさなきゃということになって。いきなり演出部に四人入るとか、ありえないこと。彼等は絵も描けないし、切らせたコンテ見たら頭抱えたよ(笑)。けどそれがよかったんだよね。仕事はとにかくたくさんあるから、それをこなしていって強くなった。
他にも高田明美、天野喜孝。みんな各々違う場所から集まってきた。
天野喜孝は夕方にならないと出社してこなくてね。総務課の人が、クビにしてくれって言い出したんだけどそれを社長が止めて。当時はケータイはないから、彼を捕まえるのが大変だった。会社に出てきたところで捕まえて、明日企画会議があるからそれまでにデザインを上げて!というと、その場でさらさら描き上げちゃう。天才だったね。絵は凄かった。
大河原 私は定時に帰れたし、余裕でしたね。フリーになったら大忙しになったけど。アニメ一本のデザインをしていればよかったから。凡ゆるキャラを世に残せるという仕事ができるのは幸せでしたよ。
プロダクトデザイナーの方と話をすることもあるけど、彼等は不愉快だろうね。私は雑談をしているうちにデザインを作っていくから。笹川さんのギャグをデザインに起こすのは面白い作業でした。
笹川 おだてブタとか、思いつきのキャラだねー。それを大河原さんがデザインした(大河原「おだてブタは描いてないけど、あれが飛び出してくるメカギミックはデザインしたね」)。シナリオには書いていない。
そもそも「ブタもおだてりゃ木に登る」なんて諺はない
布川 ギャグはシナリオに入れたらつまらない。だから書き加えるんだけど、シナリオライターにもプライドがあるから、セリフを削ったりすると文句言いに飛び込んでくる。シナリオは文芸部が作るんだけど当時の文芸部長は鳥海尽三さん。で、演出部長が笹川さん。
笹川 シナリオむちゃくちゃにしてたなあ。思いつきで書き換えちゃう。でも、一度おだてブタみたいなのを出すと、次からはシナリオに入れてくれる(笑)。タツノコ文芸部、しっかりしてたなあ。カットしまくってたけど。
布川 難しかったのは『キャシャーン』。当時はタツノコは『ガッチャマン』があったから、予算が無くて。アクションシーンは止メ画でやらないといけなかった。その代わりストーリーは良かった、と評価は高かった。
『ヤッターマン』のオモッチャマ、OPのレタリングも私がやりました。ホント、やらされてたんですよ、なんでも(大河原「当時はセルに直にレタリングしてたから大変でした」)
ボヤッキーのモデルはね、性格は僕で、笹川さんが顔。しかし八奈見(乗児)さんは面白かったなあ。八奈見・小原コンビ。
笹川 台本にないんですよ。アフレコで何をやってくれるのか、聞いているのが楽しみで。ボヤッキーのぼやきから新しい話ができあがっちゃったり(布川「出演者が笑っちゃってね」)。キャストのチームワークもあってできました。
Q、会津若松のおはなちゃんのモデルは?
笹川 元々シナリオにはなかったものなので、演出の思いつきです。だとしたら、ボヤッキーのモデルは私なのかな(笑)。
Q、今のタイムボカンについて
笹川 自分の想像とちょっと違っていたけど、今はあのリズムに慣れましたね。しかし話数によってはヒドいものもある。若い人が今の感覚で作っているからいいのだけど、あそこはもう少し秒数が欲しいなあ、と思うことも。
Q、失敗の話を
布川 当時スタジオの周りには何もなかったから、よく麻雀をやりに抜け出して笹川さんに怒られました(笹川「スケジュールが厳しい時にもいなくなるし、忘年会も社長の乾杯が終わったらもういないんだから(笑)」)。
大河原 ゴータムの頃には専属という立場で仕事をしていたのに、こっそり上井草方面で仕事をしていました(笑)。
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