世界は四角くないんだから
「東京に住んでいる人は、人間関係の相対化ができている」と北海道出身の人から言われたことがあります。
私自身も千葉県の地方都市出身なので、「地方」と「都会」の人間関係の違いをそこそこ感じられていたのですが、それでも「東京人」のドライさ、人間同士の距離感の取り方について「相対化」と短く表現されたことには驚きました。
この場合の「相対化」は言い換えれば、「そっちはそっち、こっちはこっち。こっちもあなたに踏み込んでいかないから、そっちも踏み込んでこないでね」ということ。肩がぶつかるくらい人々が隣り合って暮らしている東京だからこそ、そんな「相対化」が身につくのだと思います。
「東京モン」なんて言葉はもう耳にすることもありませんし、上京が特別なことでもない現代ですが、人間関係が密な地方生まれの人だと、東京の持つ雰囲気は別モノに感じられるのかもしれません。
こんだけ人がいたら相対化しないと生きていけない。「アパートの隣にいる人がどんな人なのか分からない」のも相対化、ある意味の処世術でもある
この「相対化」をツカミにして、今回述べるテーマは「メロドラマ」です。
ここではメロドラマを「人情を主軸にし、感情を行動原理とする人々による物語」と定義します。
日本人に限らず、多くの人は「メロドラマ」が大好きです。甲子園や駅伝、オリンピックなどのスポーツ中継でも合間に選手の家族の姿や苦労話が割り込んでくる。「お父さんとマンツーマンで必死に練習し」とか「人口僅か○○人の町で生まれ」とか。そういう情報が付け加えられることで選手に感情移入しやすいようにリードしている。
2時間サスペンスも「メロドラマ」的要素が重要な役割をしていますね。偶然事件を目撃したお姉さんが何故か犯人を追いかけて風光明媚な観光地を転々と回ったり、温泉に浸かったり。
ついでに言えばワイドショーは「メロドラマ」的な視線、言い換えれば野次馬根性で作られている。報道番組ではなく情報番組と銘打っているのはその野次馬根性で取り上げられる情報がニュースではないことを教えてくれます。犯人がどれだけオカシイ奴か、どんなドロドロした動機が隠されているかをほじくることが視聴者の興味を惹くことを分かっている。
敢えて日本の国民的映画「寅さん」を引き合いに出さなくても、これだけ周りには「メロドラマ」的要素が溢れています。
今野次馬根性と評しましたが、それは問題の本質を深く検討し、意義や解決策を模索する気はない、ということです。問題の本質より大事なのは「好きか嫌いか」「悪いか悪くないか」。問題提起をするのではなく簡単に答えだけ知りたい。だから「こういうのが見たいんでしょ」という番組の作り方がされている。視聴者を舐めていると思います。
とまあ、そのへんの批判を私がいまさら言わなくても、そういう「メロドラマ」姿勢でTV番組や映画などの映像を作ることに批判的な人たちは昔からいました。溝口雄三さんが日本的なベタベタしたストーリーを嫌い、カラッとドライな人間を描いたことは有名です。
そういうドライな人間描写が「ナウい」とされた時代があった。しかし、それが特別な目で見られたのは、逆に言えばメインストリームとして「メロドラマ」がまずあって、それに対する存在・アンチテーゼとして見られていたからです。
『太陽を盗んだ男』(1979)のような刹那的・享楽的な人間も今ではただのサイコパスにされてしまうけど、当時は日本的なベタベタした人間関係を主題した物語へのアンチテーゼだった
こういう前段階を踏まえて今はどうか、ということでやっと本論に入っていくのですが、
「好き・嫌い」「良い・悪い」「恨み・仇」といった感情が登場人物の行動原理になる「メロドラマ」が、SNSで常時繋がっている人間関係の中では、弱いものになってきているのではないでしょうか?
SNSによって相手が何を考えているのか、今は簡単に知ることができるようになりました(もちろん、表に出ている部分だけなのですが)。だからこそ「炎上」案件が出るし、「TL荒らしてすみません」とかサブ垢・裏垢といった使い分けがSNSマナーとなっている。今の人間関係にとって不用意に「感情」を表すことは、最初に使った言葉で言えば互いに「踏み込んでくる」ことになってしまう。
「よくもズケズケと!」とハマーン様には言われそうだけどSNSってズケズケ入ってしまいがち。しかもそれが見ず知らずの他人の場合があるから怖い
そういった行為を嫌う現代を体現しているのが、現在のアニメの演出にある「無の時間」なのだと思います。
『エヴァンゲリオン』のエレベータのシーン、約2分間の無言は当時話題になり、多くの模倣を生んだがそういう冒険がいまや当たり前になっているのではないかと思う
SNSでは盛んに話していた二人が実際に顔を合わせてもとくに感情の発露をすることなく淡々と会話するし、むしろ饒舌ではなくなっている。
『ゴジラSP』のこの2人、LINEらしきSNSツールでは盛んに会話していたが、最終回で再会した時には特に喋っていたり抱き合ったり、再会を喜んだりしている「ウェットな」描写がされていなかった。それもある意味現代的なコミュニケーションなのかもしれない。
しかし、この「踏み込んでくる」ことを嫌う心情が、同時に必要以上にお互いの距離をとることにも繋がっている。
「ランバ・ラルは35歳」でも触れたのですが、携帯電話やSNSが普及する以前の世界では、次に会う約束をせずに別れた二人は、ひょっとしたら二度と会えないかもしれなかった。ある時から連絡が途絶えてしまえば、もう会う機会はめぐってこないかもしれない。だからこそ今の出会いや繋がりを永遠にするために愛の告白をしたり結婚したりしなければならなかった。
アニメ『めぞん一刻』の1シーン、こずえと五代が最後に会う回では、二人に明確な別れはない。しかし連絡先が分からなくなればもう会うこともない。そういう感情は当時としては普通すぎるほど普通だった。
だからこそ感情や情念といった人の思いが重視される物語を作れたし、それに相反するドライな人間関係・互いを相対化した人間関係を演出することが特別に思えた。
しかし今はどうでしょうか。二度と出会うことが無い人間関係、会えなくなる恐れを感じなくなった新しいSNS時代の人間関係の中では、そういった相対化・「ナウい」人間関係もまた「普通」のことになっています。
現代は、結局何も起きなかった世紀末を過ぎ、虚無感すら漂っていたゼロ年代を超えた、新しい時代になっていると思います。その中でSNSがネイティブになった世代が成長してきた。
近年、これまで述べてきたように反「メロドラマ」的、ドライな人間関係を描くことが主流になったことへの反動のように少年ジャンプ的(友情・努力・勝利が大原則)で、むしろ古典的(復讐や仇討ちが行動理念)ともいえる『鬼滅の刃』や、そして同様に時代劇的とも言われた『半沢直樹』が人気を得ています。これも、ドライな人間関係に飽きてきた今を端的に表していると思います。
人とあえて距離をとることを「ヤマアラシのジレンマ」と言って共感を集めたエヴァンゲリオンから25年を経て、人間関係の在り方はまた変わってきているのではないでしょうか。
一方『Gのレコンギスタ』では、価値観の共存しえぬ二人が「世界は広い」ことを知り、共に同じ世界で生きられることを知ります。
これはSNSが多用されることで、むしろ世界を狭くしている(自分の世界をフォロワーとの繋がり=人間関係だけで考えて自分から狭いモノにしている)現代人にとって、それは「自覚的に世界を拡張する努力」を強いることになります。狭い世界で安心し、その世界に固執・その世界から疎外されることを何より嫌う現代人にとって、それは酷なことなのかもしれません。
宇野常寛は常に時代の先を見ていた富野が今、遅れてしまっていると述べました。それは一足飛びに人間社会を進歩させたSNSが、人類に与えた影響が大きすぎたからかもしれない。何せ、ほとんどのSFはそれの誕生と成長を予想しえなかったのですから。
アニメで描かれたのは『サマーウォーズ』のOZくらい?けどあれも便利な道具としか描かず、コミュニケーションツールとしては表現していないのよね、しかもその暗部についても。と思ったら細田は近年『竜とそばかすの姫』でも仮想空間としてのSNSを扱っていましたね
その中で、富野監督は新しい時代に与えられた難問に対して何とか解決を探そうとしているし、その手掛かりを若い世代に見せようとしているように思えます。
2時間サスペンスみたいに事件を見てしまったおばさんが自分で犯人を追跡するようなメロドラマ、人情で行動できる人を見て共感できる時代ではなくなりました。しかし同時に、人との距離を必要以上にとることへの疑問も生まれてきていると『鬼滅の刃』や『半沢直樹』の人気を見て思うのです。彼らの行動に「スカッとする」爽快感が人気を集めている。
しかしそれを論じる自分も40代でしかないので10代20代がどう考えているのか想像するよりほか有りません。
以前、欅坂46が活動していた時は、彼女たちの歌や言葉がどれだけティーンエイジャーの共感を得ているのかが気になり、渋谷のTSUTAYAに行ったりしていましたが。
すごい人気でした。中高生くらいの子たちが集まっていた
その欅坂46で以前センターだった平手友梨奈はSNS時代の今について「息苦しい」と語っていました(実際、彼女はSNSを一切拒否しているそうです)。現代を生きるSNSネイティブの若者は、日々何を意識して生きているのか。彼らが「メロドラマ」的な『鬼滅の刃』や、新海誠の作品などを支持したことは興味深いと思います。
……現代人は情報革命のただ中に生きています。インターネットが生まれ、ケータイが生まれ、スマホが生まれ、SNSが生まれた。その革命は今もなお続いています。その過渡期の中では変化を実感できるかもしれませんが、それが人類社会に与えた影響については知りえないのでしょう。
この数十年で人のコミュニケーションは間違いなく変わっています。更にコロナ下で「会わない」ことが礼儀のニューノーマル時代にもなりました。
しかし「メロドラマ」的なウェットさはこれからも残っていくでしょうし、それに反するドライさを好む風潮も残るでしょう。アドラー的に言えば人の悩みの9割を占める人間関係に苦しむ人も昔と変わらず残っていく。
その1つの解決策が先ほど『Gのレコンギスタ』で例に挙げた「世界の広さを知る」ことなんだろう、とやっぱり最後に富野監督を引き合いに出して、今回は終わります。
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