『シン』×『-1.0』その映像的差異
『シン』と真逆の『-1.0』
金曜ロードショーで『ゴジラ-1.0』が放送されます。テレビ初放送が注目され、宣伝にこれだけ力を入れてやっているのは近年珍しいように思います。
それだけ『-1.0』が話題作ということでしょう。アカデミー賞での視覚効果賞をアジア映画として初受賞、興行収入76憶円、アメリカでも5600万ドルという大ヒット作となり、庵野秀明総監督の『シン・ゴジラ』(2016)の82.5憶円に並ぶものとなりました。
これだけのヒットを飛ばした理由は様々あると思いますし、公開から一年たってそれなりに考察も蓄積されてきていると思いますが、私に引っかかったのは山崎貴監督が常々「シン・ゴジラと真逆」と発言されていることでした。
(引用)【山崎貴】「シン・ゴジラ」に対抗するために「ゴジラ-1.0」は"真逆"にした
https://www.youtube.com/shorts/vHlr8L-sjbM
次に挙げた記事でも山崎監督は「『シン・ゴジラはものすごくヒットしたし、ものすごくいい作品だし、意識して全部逆、逆にやりました」と発言されていますね。
(→https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2024/03/24/kiji/20240324s00041000468000c.html)
この「真逆」発言について特にドラマ構成の面で考察されている人は多数見かけられます。人間ドラマを重視した『-1.0』とドライな政治劇に終始した『シン』だと。
それが『シン』好きと『-1.0』好きの分裂を生んでるような気がするんですよね。「『-1.0』は好きだけど『シン』はちょっと……」という人も、見受けられます。
ですが、このドラマの違いなんてそんなことは、一見すれば分かり切っている(笑)。こんな火の玉直球ストレートなメロドラマなんだから。
私が今回書きたいは、その真逆のドラマをより強調している演出上の技法です。今回は特に『富野演出のリアル』の著者として(おかげさまで作った分はほぼ売り切ることができました)、「リアルを描くこと/描かないこと」について述べていきたいと思います。
そしてそれについて考えていく中で、山崎監督が『シン』と対立項のような映画を撮ったことが意図的であり、大ヒットしたことも、先に述べたようなファンの分裂が生まれることもおそらく「してやったり」だったであろうことが見えてくるのです。
感情を前面に出した『-1.0』、覆い隠した『シン』
さて、ドラマ面での違いをざっくり語ってから本論に移りたいと思います。
『-1.0』は主人公敷島を主軸に置き、彼の成長と克服が描かれていきます。その中で浜辺美波さん演じる大石典子と出会い、彼女との疑似的な家庭を守ること=ゴジラと戦うことになっていく。「自己のトラウマの克服→家庭を守ること→ゴジラを倒すこと」と一本で繋がり、映画のメインストーリーを形成しているわけです。
個人的な衝動によって物語が動かされているという点で間違いなくメロドラマの構成になっている。こういう構成だからこそ視聴者は敷島にスムーズに感情移入し、感動を共有することができる。
廃墟となった銀座の街で咆哮するシーンなどまさにそういった視聴者をリードするポイントになっています。
一方『シン』ではメインストーリーの主軸になる人物がいません。いちおう主役として長谷川博己さん演じる矢口蘭堂がおりますが、彼の「個人的な衝動」で物語が進むわけではありません。あくまで巨大不明生物であるゴジラを排除するのは政府の義務として、閣僚たる矢口はその対策本部事務局長としてコトに当たっているだけです。
しかしながら自分が受け止められないほどの事態に見舞われた時には感情的にもなります。しかしその時には「まずは君が落ち着け」と冷や水を浴びせられてしまう(笑)。
あくまでドライに、淡々とやるべきことをやっていく。そこに感情が付け入るスキはありません。
だから石原さとみさん演ずるカヨコ・アン・パタースン米大統領特使とのラブロマンスなんてあってたまるかという感じです。蘭堂以下巨災対メンバーから閣僚、自衛隊員まで全て「やるべきことをやっている」。そこは國村隼さんの「仕事ですから」がまさにそれ!なわけです。
このクールでドライな『シン』がなぜ感動を持ちうるのか。その一つは徹底的なリアリティの積み重ねているからです。人々が「やるべきことをやって」成果を上げるからこそ視聴者は達成感・充足感を見出す。そこに個人的な成長やエモーションは存在しません。
だから『シン』の主役はゴジラと向かい合った人々=日本になる。そこが「人」を描いた『-1.0』と異なってくるわけです。
『-1.0』は『シン』の逆という視点から語られるからこそ、敢えて政府を介入させなかったのでしょうね。「このままだとソ連が来るとか言ってるんだから米軍は協力するだろう」とかと指摘がありましたけれど、こういった理由からワザとしていない。あくまで民間でやり遂げるからこそ『シン』と逆になっている。だから上記の批判をする人は山崎監督に踊らされているのです。
敢えて場所がどこなのかをハッキリさせない『-1.0』
『シン』のリアリティを演出する端的な例が字幕の存在です。
『シン』ではこれでもかとこのシーンがどこにあるのかという字幕が入ってきます。「〇〇室」とか「〇〇市」とか。正直これは視聴者にとって必要な情報ではありません。しかし日常にあるこういった情報の「雑音」を入れてくることで、これがどこで行われているのかを視聴者に蓄積させている。東京近辺に土地勘がある人なら、ゴジラがどの辺にいてどういうルートで移動しているかとかを感じ取ることができる。
観た人の「ゴジラが自分の家を踏み潰した」「自分の働いている会社を壊してくれた」なんて話もありました。
他方『-1.0』ではこれも意図的にそういったリアリティに繋がる情報を排除していきます。
一つ例を挙げると、あれだけ映画に登場した敷島の家がどこにあるのか、視聴者はだれも分からない。
どうやら銀座まで電車で行ける距離にあるようだということは典子が出勤している姿から見て取ることができるのですが、正確に東京のどこに存在するのか劇中で語られることはありません。
海神作戦開始の朝、敷島はバイクに乗って震電が格納されている倉庫(これも横須賀にあるらしいとしか語られない)に向かって作戦開始前に到着しているのですが、当時の道路状況など考えると敷島の家は、東京でも横須賀寄りにあるのかなあとは想像できます。
ただそれ以上明確にはなっていない。そういった所在を明らかにしない点は他のシーンでも散見されます。
なぜ所在を明らかにしないのでしょうか。『シン』ではそこをハッキリさせてあるので聖地巡礼などができるのに(私も最近、ヤシオリ作戦で作戦指揮所が置かれた北の丸公園の科学技術館を訪れ「あ、ここだ」と感じたりしました)。
しかし、それを明かにしないことによって、視聴者は敷島の家について、おそらく私が「横須賀寄りかな」と想像したように、それぞれが「自分が考える敷島の住所」を考える。つまり個人個人が幻想の敷島宅を持つようになるのです。
この幻想=ファンタジーは本論の重要なキーワードになるので最後にもう一度触れます。
ハッキリしない住所と反対に、やけにしっかり描かれているのが敷島宅の中です。
二間続きで玄関を入ったら土間があり、そこに台所がある。三和土を上がるとお祝いに来た掃海艇の皆で食事をした居間があり、その隣に仏壇がある寝室がある。
と、簡単にこの風景が思い出されるのです。これは何度も劇中でシーンがあっただけでなく画角、つまり画面構成にポイントがあります。
極端なヨリで全体を撮らない『シン』
『-1.0』の画角はとにかくロングに、人物のポジションが分かりやすいように撮られます。これはTVのホームドラマによく見られます。視聴者の視点が一定になることで人物の配置が分かりやすくなる。人物のアイライン上ではなくやや上から、俯瞰で全体を見渡す感じです。
同じように人物を映す時もバストショット、胸から上で顔を撮ります。表情が明確ですし、役者の顔や姿も「映える」。こちらもスタンダードな画角です。
他方『シン』では極端なヨリやヒキが多用されます。
庵野監督の敬愛する実相寺昭雄監督がよく用いた、いわゆる「実相寺アングル」です。
極端なほどのヨリは画面に顔全体が入りきらないこともあります。またヒキでは役者の表情や細かい仕草が見えないこともしばしばです。
このヨリやヒキで生まれる効果は画面のメリハリとドラマティックさです。極端なカットが多くなることで印象的なシーンが生まれ、淡々とした物語に抑揚を生んでいます。
他にも『シン』ではゴジラを真下から見上げるようなアオリのカットもありましたね。ゴジラの全体像は全く画面に収まらないのですが、その巨大さや異様さを感じさせるのに効果的でした。
ちょっと話は逸れますが、ゴジラ映画ではよくカメラのポジションが指摘されます。つまりゴジラをどの角度から撮るかです。
すっかりゴジラより高いビルが多くなった現代日本では、上からゴジラを撮るとビルの谷間にのまれて巨大感が薄れてしまいます。ですから見上げる角度で撮るのですが、それを大胆にやってのけたのが『シン』だったと言えます(おそらく相模湾から上陸して武蔵小杉を通過して都心に向かうルートも高いビルの存在を考慮して設定している)。
対して『-1.0』ではゴジラを撮る時にもかなりワイドに撮っています。時代設定が終戦直後ということもあって高いビルが無いので、ワイドに撮ってもゴジラの巨大感が損なわれることはありませんでした。
CGを多用する映画ですとどうしても「せっかく作ったCGなんだからたっぷり映したいよね」という作り手の気持ちが見え隠れすることがありますね。『-1.0』がそうだというのではなく、一般論として多くのCGが多用される映画では、という話なのですが、やけに画角を広く、そしてシーンも長く撮影してこれでもかと見せられることがあります。不必要なほどにネ。余談でした。
ゴジラの描写についてもう一つ比較するなら、手です。
『-1.0』では近年の米LEGENDLYが手掛けるモンスター・バースシリーズのゴジラのように太くて立派な腕があり、振り回すような大きな動作で表情の少ないゴジラの感情表現を補っていました。
逆に『シン』では驚くほど小さい腕がチョコンと付いているだけ。何の役にも立っていなそうなこの腕が、生物として非ざる姿を示していて、逆にゴジラの存在感の不気味さを醸し出していました。
「説明的」な画角とヨリ・ヒキ・アオリの効果
ではこういった画角の違いが両作品にどのような差を生み出しているのでしょうか。
ここで映像クリエイターのバイブルである富野由悠季著『映像の原則』ではどのように説明されているかご紹介します。
本著の中では「アングル(角度)の意味性」として以下のように説明されます。
また俯瞰のアングルについては続けて「俯瞰はつかうな!」と別項を作って述べられています。そこでは「俯瞰のアングルは、物語舞台を全体的に理解できて、被写体の配置を示すのに便利です。劇進行の段取りも描けます」としながらも、「映像的にいえば感情が入らない客観的な画で、ひょっとしたら、冷たい突き放したように感じられる」「劇を語る映像的機能をもたない解説図」と言い切ります。
確かに、先述した『シン』のアオリのゴジラは足元にいる人の目線であり、恐怖感を持たせます。対して『-1.0』で銀座を闊歩するゴジラを俯瞰した画は、誰の目線でもなく、ただ説明的な映像になっています。
つまり『-1.0』の画角はかなり「説明的」で「冷たく突き放している」といえるのです。敷島宅の中を視聴者がよく覚えているのも、人物から距離をとって水平のアイラインからやや俯瞰ぎみに撮られているからこそ、記憶に残っている。
ではその「説明的」な画角はダメなのか?それは違います。それでは『-1.0』がこれだけ多くの人に支持されている理由が説明できません。
山崎監督が述べているように、『-1.0』はかなりエモーショナルな作品として役者にも大振りな演技をさせています。吠える・叫ぶといった感情表現を押し出しているわけですが、それだけでは物語は進行しません。
ですから画角を「説明的」にし、視聴者が自然に物語の推移を理解できるようにリードしているのです。それによって視聴者はそれと意識することなく作品世界に没入することができる。
一方『シン』では逆に演技は感情を押し殺し、説明セリフが多く用いられます。さらに字幕も相まって情報の洪水の中に視聴者は放り込まれるのですが、映像としてはヨリ・ヒキ・アオリといった抑揚に富んだ画角が繰り返される。
感情表現を役者にさせて映像では落ち着いている『-1.0』と、役者の感情は落ち着いていながら映像はドラマチックな『シン』。これが『シン』がリアリティの蓄積と並ぶ、視聴者を感動させるもう一つのポイントではないでしょうか。
「ファンタジー」を描くことで支持を得た『-1.0』
ここまで色々語ってきましたが、最後にまとめとして『-1.0』に内在する「ファンタジー」について述べます。
そもそも山崎監督は『ALWAYS 三丁目の夕日』でも幻想の昭和30年代を描きました。あの映画がヒットした時も「本当の昭和30年代はこんなものではない」と指摘がされていましたが、そりゃそうなんです。山崎監督は本当の昭和30年代を描こうとしたわけではないからです。彼は視聴者それぞれの心にある幻想の昭和30年代、ファンタジーの世界を描こうとしていた。
『-1.0』も同様です。彼が描いた世界は観た人がそれぞれに思い描く幻想の終戦直後の日本であって、真実の終戦直後ではない。
それは敷島宅の所在を明確にしないことからも言えますし、その他の雑な情報を排除したことからも見て取れます。
例えば敷島宅の所在を明確にしたら、終戦直後の其処はこういう建物があってそれは何年に建てられたものでこの時点ではこういう風だった、といった雑な情報が加わっていくわけです。いわゆる歴史考証といった部分ですが、それをバッサリ排除している。
また他にも昭和2〇年と指定した段階で当時の政権がこうで、と付加されてきてしまうので、そこも排除です。だから実在の人物は一切登場しない。
歴史的な舞台設定をした時点でこういった付随する様々な情報が生まれてくるわけですが、『-1.0』では「ファンタジー」、つまり架空の終戦直後と設定したことでそれを描写することを放棄しているわけです。
海神作戦にしても、当時国内にはもっと高位の軍人がいくらでも生き残っているのに、それも出てこない。登場人物が全て架空にしたことで「歴史」を描く気が無いことが分かります。
『シン』が政府の対応やら閣議決定、自衛隊の指揮系統などをこれでもかと緻密に描写してリアリティを追求したことに対し、『-1.0』の姿勢はまさに「真逆」と言えます。
ではなぜ「ファンタジー」にしたのか。
それは雑音を排除することで視聴者に与える情報をコントロールし、物語の主題である敷島と、典子に視線を集中させるためです。彼らの物語を紡ぐことが『-1.0』のテーマであり、それは主役が個人ではなかった(主役は日本政府ともいえるし、ゴジラともいえる)『シン』とディスコースになっている。
だから『シン』の時にSNS上でファンが作り出したアナザーストーリー(無人在来線爆弾の整備士の話であったり巨災対メンバーそれぞれの話など)は生まれにくい。視聴者の目が敷島と典子にくぎ付けに「されている」。
結果、広く『-1.0』は支持をされ、海外を含め高い評価を得ました。これはエモーショナルな物語、メロドラマ的要素が受け入れられた結果です。
敢えて間口を広くし、多くの人に分かりやすく感情移入しやすい映画にするために「ファンタジー」のゴジラを描いた『-1.0』。
現代日本にゴジラが現れたら、というシミュレーションを徹底的に追及してリアリティを描き、あとの物語はそれぞれ観る人に委ねた『シン』。
これが山崎監督の語る「真逆」なのだと思います。
山崎監督は今まで挙げてきた点をおそらく意図的に行っています。つまり「狙っている」。『シン』の大ヒットの後に作るという大役を任された山崎監督の「真逆」という狙いは、まさに的中したといえるのではないでしょうか。