見出し画像

巨大な敵をうてよ

「もうね、巨大化するのはシシ神でまいったんですよね。結局つきつめていくとあれは原爆のイメージしかないんですよ。だから、今回はそうじゃなくて、実際、女の子にとってリアリティのある世界だけにしたかったっていう」(『風の帰る場所』より)

 これは宮崎駿が『千と千尋の神隠し』について語った言葉です。

 最近の宮崎監督の作品って、なんであんなにラストがグダグダなんでしょうね。
 宮崎作品のラストだけを取り出してみると、ある時まではラストをしっかり用意しているのが分かります。


 巨神兵、ラピュタ崩壊、飛行船の事故、そしてシシ神など……。これらの「終幕(ラスト)」は映画を観に来た人間に、ちゃんと物語を終わらせることを示し、満足感・カタルシスを与えてくれます。「ああ、いいお話を見れた」と。

 それが、最近の作品にはない。
 宮崎が大きく方向転換をしたのは、本人曰く、ナウシカのマンガを書き終えたころからだそうです。それまではちゃんと物語を終わらせること、そのための記号を用意していたのに、その後はそれを必要としない(求めない)ようになっていった、と。

画像1


宮崎が演出した『ルパン三世』パート2の最終回ラストシーン。時間の計算を間違えた結果、富士山を背景に海沿いの道を走るだけになりましたが、本当は画面の奥に向かって消えていく終幕を用意していた


 言うなれば「いくらでも続きが作れそうな終幕」。それが最近の宮崎です。カタルシスが弱い。

 先日「奇跡」で物語を終わらせることについて書きましたが(「奇跡は起きます起こしてみせます」)、今回はその補足として、宮崎駿と富野由悠季という両監督が、「奇跡」ではない終幕をどう考えてきたかについて書きたいと思います。のっけから宮崎を「グダグダ」とか書いちゃいましたが


 改めて、「ちゃんと終わる」ことは名作の1つの要素です(必須ではないです)。
 分かりやすく、物語が終わったことを視聴者に伝えることが、満足感を与える。
 
 例えば、巨大な敵が倒されること。それが明確に物語を終焉を示してくれます。宮崎はそれをシシ神でやめちゃったわけですが。
 巨大な敵は悪の組織だったり、敵の首領であったり、首領の乗る巨大ロボットであったり、化身した怪獣であったり。枚挙に暇がないですね。いわゆる「ラスボス」です。

画像2

分かりやすいラスボス

 ラスボスを倒せば分かりやすくちゃんと物語が終わり、ケジメがつく。敵を倒して人類が救われてエンディング。イイ終わり方だなあ。


 それに対するアンチテーゼとして後味悪い胸糞エンディングが作られたりもするわけですが、それは所詮アンチでしかない。胸糞エンディングが名作に並ぶためには相当作り手の技量が要ると思います。

画像3


「気持ち悪い」って、劇場でポカーンとしたのを覚えているなあ

 またもう1つ、余韻を残すタイプは名作たり得るものが多いような気がします。エンディングテロップが流れながら、「その後、○○は△△と結婚、今では平和に過ごしている……」みたいなことが語られると、観ている人は「ああ、よかったなあ」という実感が強まったりする。海外映画の実話系でよく使われる手法ですね。


 それらどれにも属さないのがループ系。『ビューティフルドリーマー』などがこれに入ると思いますが、この場合、不条理というか、物語自体は結局終わらなければ進みもしていない場合が多く、主人公の成長とかも求められない。楽屋オチというか、そのループそのものを楽しむタイプなので、やはり作り手の技巧が求められると思います。


 さて、つい分類してしまいましたが、改めて巨大な敵についての話に戻します。
 まず前提として日本人は「大きいモノが好き」。

画像4

 世界最大の戦艦とか世界一の塔とか、世界一を求めたがる。「2位じゃダメなんですか」ではないですが、分不相応の巨大なモノを好む傾向があると思います。


 その反面、巨大なモノにやられる傾向もある。

 先程挙げた文で宮崎がシシ神を「原爆だ」と言っていますが、日本人にとって戦争の終幕は原爆のイメージがあります。原爆が落とされるより遥かに前から戦況は厳しかったはずですが「原爆が落とされたことによってトドメを刺された」という強いイメージを持っている


 これがいうなれば「超兵器神話」となって脳内にこびりつき、作劇の中に残されてしまっている。
 『宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』では倒しても倒しても巨大な敵が現実に現れ、巨象に立ち向かうアリのようなヤマトが描かれています。

画像5

 それがヒロイズムと悲劇性を引き立たせているわけですが、あの感動は当時の視聴者に向かって響くであろうと目論まれて、演出されています。


「……山田(哲久)によれば、西崎(義展)は(『さらば」を)『宇宙戦艦ヤマト』最後の作品として、ヤマトの消滅、古代進と森雪の死を当初から決めていたという。そして、その最期をいかに盛り上げるかの作劇が西崎の考えどころだった。思想以前に興行師としての勘で、この特攻シーンは必ず観客に受けると見抜いていたに違いない。(中略)……なお、昭和初期生まれが多い『ヤマト』のスタッフ陣では、西崎の選択は必ずしも少数派意見ではなかった」(『宇宙戦艦ヤマトを作った男 西崎義展の狂気』より)

 巨大な敵に向かって全てをなげうって立ち向かう。その崇高な犠牲を賛美する。
 もちろん、無事に打ち勝って帰ってくれば大感動のハッピーエンディングです。


 『ヤマト』に代表される、この日本人の心の根源に関わるような作劇上の演出に、冷静に「待った」をかけたのが80年代のクリエイターたちでした。


 例えば押井守は先述した『ビューティフルドリーマー』で不条理な、無意味とすらいえる物語を描きました。そして、その後の『機動警察パトレイバー』では巨大な悪の組織を敵として設定することをやめます
 そこではひたすら「等身大」の物語が描かれた。メシのことで喧嘩したり、地下水道のワニを追いかけたり、小さな犯罪に対応したり。
 しかし劇場版については金を払って見に来てくれる人へ対して作るものなので、さすがにカタルシスのある物語を用意しなければならない。しかし、押井はそこでも「倒すべき『敵』は既に冒頭で死んでいる」というトリックをブチ入れてきます。「ラスボス」が最初に退場している、という。

画像6


 ……70年代から一転して悪が「等身大」になった、それが80年代でした(このへん私の以前書いた「ヒーローなんかじゃない」も併せてお読みください)。


 しかし、それは視聴者に、「物語」への不満を抱かせることにもなった。


「……時代劇の場合、悪役の内面を描けば描くほど、物語の盛り上がりはなくなる。悪役が憎々しいまでに非道で、しかも強い、あるいは狡猾だからこそ、それに立ち向かう主人公に悲壮感が、ドラマに緊張感が、そしてそれを倒すアクションに爽快感が生まれる。最後になって延々と心情を語りたがるような卑小な悪役を斬ったところで、観客にはなんらカタルシスは生まれないし、それまでの戦いを観ることに費やした時間そのものが無駄な時間に思えてくる」(春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』より)


 安易な特攻精神で盛り上げるのも嫌だ。悪役の内面も書きたい。
 80年代のクリエイターがそう思って作品を生んでも、思ったほど視聴者は盛り上がってくれなかった。

 その結果、ビジュアルとして巨大した敵だけが独り歩きしていきます。
 それほど悪辣でもなく、内面もドラマも入れた敵を造形した結果、クライマックスはイマイチ盛り上がらないものになる。しかしそうなっても、とりあえず巨大な「超兵器」を出せば、それっぽいエンディングを用意できるのです。

 『機動戦士ガンダム』の富野由悠季監督も、その点の試行錯誤を続けた人です。
 以前は分かりやすいラスボスを用意していた富野監督ですが、宮崎の『もののけ姫』とほぼ同じ時期から、その作劇に変化が見られてきます。

画像7


ラフレシアとの決戦は、映画の終幕としては「分かりやすい」。しかしクロスボーンバンガードは健在だし、物語としてはひと区切りをつけたに過ぎない

 『機動戦士Vガンダム』では「エンジェル・ハイロゥ」という超能力者を使って人類全てに精神攻撃するという「超兵器」が登場します。これをめぐって最終決戦が繰り広げられるのですが、近年、その演出について富野監督はこう話しています。


エンジェル・ハイロゥというアイデアを思いついた時、僕はかなりのアイデアだったと自惚れてもいたんです。でも『G‐レコ』を作ってしまうと、エンジェル・ハイロゥなんて「へっ」という程度のものです。(中略)……アイデアとしては素直に出てきたものです。むしろ、「分かりやすい絵」を否定しているように見えるのは、監督の力が不足していたからです。もっと兵器として分かりやすく描けば、印象はまた違ったはずです」(『機動戦士Vガンダム Bru-rayBOX』サブテキストブックより)

画像8

 『Vガン』制作から20年を経た監督は、エンジェル・ハイロゥをただの「兵器」でしかない。と考えています。当時は「かなりのアイデア」だったはずなのに(笑)。「超兵器」だったはずなのにそれっぽく描けなかった、と自嘲が感じられます。

 富野監督の作劇の真骨頂は「終幕」だと、私は考えています

 どんなに状況が混沌としていようと、勢力が乱れまくっていようと「この戦いが終われば、終わる」と視聴者に感じさせてくれる。その風呂敷のたたみ方が抜群に上手い

画像9


Vガンのあの見事な最終回すらも、監督は「手法としては、あの程度のことはできますよ、というのがあるだけ」と言っている(同上)。すげぇぜ、監督


 しかし、それも長年TVシリーズを手がけてきて、一時は「皆殺しの富野」と言われた反省からたどり着いたものだと思います。
 富野監督がたどり着いた、終幕を納得のいく方法で視聴者に知らせ、かつ物語もしっかりと終わらせる方法。


 それは「主人公がガンダム(主人公機)を乗り捨てること」と、「みんなが乗ってきた船が沈むこと」をちゃんと示すということです。


 VガンダムもターンAもG-セルフも最後は乗り捨てられ、主人公たちは「自分の足で」歩み出します。
 そして、主人公を含めた仲間たちが乗ってきた船も沈没します。これを見せることによって「旅が終わり、物語がもう流れ進むことはない、ここがゴールだ」と視聴者に印象づけている。ちゃんと、物語を終わらせることができる


 決して巨大な敵に頼ることがなくとも、そのカタルシスを伝えることができる。まさに富野演出の真骨頂だと思います。

 しかしそれが、分かりやすい「ラスボス」との決戦に慣れた人にとっては不満なのかも知れません。現実の戦争にはラスボスもなければ決戦もなく、あるのはただ振り返った時に「あの時が分岐点だったんだなあ」という感想だけなのですが。


 ネオ・ジオングやら金ジムなんかは、分かりやすい決戦!なのですが疑問が残ります。「あれで何が終わったの?」と。「ビジュアルとして巨大化した敵による、それっぽいエンディング」でなんとなく終わった気にさせられている。だからいくらでも続編も作れる。それじゃあ何のカタルシスも生まれません。

 主人公機を含めたあらゆる兵器、すなわち物語を牽引する「力」が封印され、ちゃんと物語がおさまる。そして生身に還って終幕を迎えます。
 こういうちゃんとした風呂敷のたたみ方をしてくれるから、視聴者は「良いものを見たなあ」と満足してくれるのです。

画像10


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?