武器を棄て旅に出よう
遂に完結しました『Gのレコンギスタ』。
あっという間の半年でした。楽しかった〜。
最終回は監督とご一緒できる、ということでしたので、せっかくですからお祭りに参加してきました。監督、肩の荷が降りたような、とても清々しい表情をされていたのが印象的でした。
とはいえ、何やら不満もあるご様子で。リテイクしたいと言われてました。完パケ納品が二日前だったそうですから、ギリギリまで考えたんでしょうね。でもまだ直したい、と。
でも、やはり終わってしまうというのは寂しいものですね。久しぶりにこの寂寥感を味わいました。
やっとそれも落ち着いてきたので、そろそろ感想など。
今回は改めて作品の大テーマについて考えたいと思います。
最終話を観て感想は「軍人たちは死に絶えたな」、ということでした。実に無様に無慈悲に軍人は死に絶えた。
ジュガンも、クンパ大佐も、そしてトワサンガのドレット艦隊の面々も。スルガン総監もですし、本当にきっちり軍人だけは死に絶えた。
(このへん『ザブングル』のイノセントと同じ。イノセントは、いい人も悪い人もいるけど、ラストではそんなことは関係なく死なされた)
戦争は戦闘のプロである軍人が戦うもの。しかし前の戦争が忘れられるくらい前にしかなかった世界では、軍人はその軍事力を持ちあぐねている人。そのことについてラライアに「おもちゃを与えられてはしゃいでいる」と言わせている。
なぜラライアにオトナを否定させたか。彼女の序盤の無垢な赤ん坊のような時期を皆知っているからこそ、このシーンが生きますね。戦争を達観して、高みから言っているような(まるで記憶を失っていた時を覚えているかのような。もしくはあれもただのフリ?)。
他方、達観どころか妄執にまとわりつかれているルイン。
最後はベルリとどつきあいをした挙句、決着がつきませんでした。
一部のサイトでは、ベルリは戦い後、マスクがルインだと知ったので旅に出た、と解釈しているようです。
私は気付いていた、と思っています。何故なら、マニィがいるから。マニィがわざわざジーラッハを盗んでまでそばにいるのだから、ベルリにはルインだと気づいて戦っていると思います。
で、刃を交えはしたものの、遂にベルリとルインの道は交わらなかった。
ルインは戦ってクンタラの存在意義を示すのではなく、新しい道を歩むことで示すことにした。
殺し合いを途中で止めた、という点で『ダンバイン』の黒騎士との対決へのアンサーともとれます。ルインと黒騎士バーン・バニングスは同じように優等生だったのに、あとから来た者に追い越された。そして、その嫉妬や執念に苛まれて戦うことになった。
結局、黒騎士は破滅的な結末を迎えますが、マスクはそうはならず。三十年目の新解釈ともとれます。
ただ、ルインはベルリの近親者を殺していないんですよね。もし殺していたら……。ベルリもまた、優等生の顔をかなぐり捨てて、妄執でマスクに立ち向かって行っていたかもしれない。キツい人間ドラマが見れたことでしょう(笑)。
なぜマスクはそうならなかったか。それは、マニィの大切さに気付いたから。
大気圏突入の時に「一緒に死んでもいい」と言われたマスクは、破滅に陥ることをギリギリで止めた。自分のために命をかけてくれる人のことが思い浮かんだから。
これはクリムも同じですね。クン・スーンの攻撃で死にかけたミックを助けることで、今まで自分が守られていたと気付いたクリム。急に優しくなっちゃって。
……戦いはノーサイドで終わりました。
クン・スーンは、チッカラを殺し恋人キアを間接的に殺した人々と同じ場所にいました。
戦争は終わったのだから、ということなのでしょうか。
監督は、戦争は武器があるからやる、と話しています。ラストで描かれたのは武器を棄てた人々。全くモビルスーツの姿がないラストでした(ラスト、船出するクレッセントシップに、絵コンテではGセルフを出しているのに、監督、あとでグリモアに書き直してますね。Gセルフはあのまま擱坐させたままなのかな)。
ターンAみたいなラスト、と捉えることもできます。
しかし、ターンAは皆が新しい生活を始めていることを示したラストでしたが、今回は少し異なり、皆が新たな船出をするラスト。
富野作品のパターンである、最後に皆の家であった船が沈む、ということが今回は無く、メガファウナは沈みませんでした。
しかし、そんな綺麗なラストの裏でアメリア艦隊やキャピタル・アーミィは全滅している。死に絶えている。ベルリがバララを非難した以上の虐殺が行われている。
しっかりアメリア艦隊が一隻一隻沈められているところも描かれていますしね。
Gは元気のG、と最初から叫ばれています。それにふさわしく、最終回は清々しい旅立ちが描かれている。
しかしそんな虐殺の後に、それをすっかり忘れて、元気に頑張れ、というのは無責任ではなかろうか。戦争をしようとした人は死に絶えたんだからいいじゃないか、というのだろうか。
ターンAのラストとGレコが大きく違うのは、そこに「癒し」はない、ということです。むしろ無慈悲な突き放しがあるだけ。
老人の遺産を背負わせて、無責任に「元気に旅立とう」と。
ベルリは、何でもソツなくできたが故に、一人になった。友も、恋人もなく。
そして、考えることをを人に任せていたアイーダはカーヒルと父を失った。
ルインはアイデンティティーの源であった被差別意識を叩きのめされた。
荒野を一人で歩んでいくことは、機械に頼りすぎる生き方しかできなくなった人々の使命、というのでしょうか。元気をひねり出して、歩みを進めていく。
Gレコは、そんな孤独な物語なのかもしれません。孤独に生きることを押し付けられてしまった人々に、これからを自分で考えろ!と。チョット視聴者置いてけぼりの感はありますが(笑)。
それぞれが新しい生活を決めた、というハッピーエンドではなく、まだこれから冒険は続く、その先には困難もあるかもしれないけれど、というラスト。
厳しいラストです。
最終回イベントでも、続編は!なんて話もありましたが、もしかしたらこの物語はまだ端緒についたばかりなのかもしれません。カッコイイ言い方をすれば、これからは視聴者の冒険が始まっていく、みたいな(気恥ずかしいことを書いてしまった)。
……そして、改めて問われる誰が「レコンギスタ」をやったのか、という疑問。
おそらく、自分はこのことについてまた考え続けるんだろうなあ、とそれだけは確信を持って言えるラストでした。
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