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仏教に学ぶ生き方、考え方「誰かに使われる人生」
私は今でこそ僧侶として日々を送らせていただいておりますが、最近までは「普通に」仕事をしておりました。
「月曜から金曜まで」働き、週末は休んだり出かけたりする生活を普通に送っておりました。
連休やお盆休みがあると嬉しい気持ちになり、それが終わると憂鬱な気持ちになり、でも仕事をしているお陰で「社会と繋がり、好きなものも買える」と喜んでいたものです。
でも今仕事を辞め僧侶に専念してから、ゆっくりと「仕事をしていた頃の自分」を振り返ることがあります。
かつては仕事は「自らすすんで」していると思っておりました。
でもよく考えてみれば、仕事をするということはつまり「労使関係の契約をする」ということです。
もっと噛み砕いて言うと、ある時間ある場所で自分の「労働力」を使ってもらい、その対価として「賃金」を手にするということになります。
つまり、誰かに「使われるということ」を日常的にしていたわけです。
そして使われているうちに、徐々に何も考えなくなり「慣れてしまう」こともあったのではないかと思っております。
この仕事は「誰のどういうこと」に役立っているのか?
仕事の先にある、「誰かの幸せ」が見えづらい時期もあったのではと思っております。
いくら給料がよくても、いくら名誉ある仕事であっても、その結果「損をしたり騙されたりしている」人がいるならば、あなたは誰かに「利用されている」だけなのかもしれません。
仏教で大切にされていることに「利他」があります。
利他とはつまり、「他人を利する」という意味です。
でもここでいう他人とはいったい誰のことでしょう?
上司?社長?取引先の会社?それともお客様でしょうか?
きっといろんな「顔」が思い浮かぶと思います。
私は私の人生の時間を、「誰にどのように」使われようとしているのか?
仕事に就くときに今一度、「そのこと」を思い返していただけたら幸いです。
☆今日の一句☆
日常の
仕事の先には
人がいる