仏教に学ぶ生き方、考え方「プカプカ浮かぶ生き方」
泳ぎにいって溺れそうになったとき、どのようなことに心がければ良いと思いますか?
そんなことにならないのが一番ですがもしそうなってしまったときには、なんとか泳ごうともがいたり、なにかに捕まろうとしたりするのはよくないそうです。
それより顔を上にして仰向けになり、身体の力を抜いて大の字のようになるのが一番いいそうです。
そんなこと言われても、溺れているときは考える余裕もないわけで、そのときになって冷静に行動できる人はいないと言ってもいいでしょう。
なので日頃からプールなどで、仰向けにプカプカと浮かぶ練習をして、いざというときに自然とできるようにしておくのが一番の方法になります。
それに限らず、普段からしている、経験しているということはいざというときに思わぬ力になりますよね。
でも普段から溺れたときの練習をしておくなんて、なんだか身が入りませんし、時間がもったいなかったり格好悪かったりでなかなか実践までは行かないものです。
あれっ、ちょっと待ってください、住職さん。もう季節は秋ですよ?なぜ夏が終わって、誰も泳ぎにいかない季節にこんな話をしているんですか?と言われてしまいそうですよね。
安心してください、今までは前フリで今からが本当にお伝えしたいことになります。
というのは、私たちが今こうやって生きていること、これこそ大きな海に「プカプカ」と浮かんでいるようなものなのです。そして私たちの命はその波の間にできた泡みたいなものなのです。
「いやいや、いくらなんでもその例えはないでしょう?私は何十年も地に足をつけて堅実に生きてきましたよ〜」と言われそうですが、実は真宗の開祖であられる親鸞聖人はそうではないとおっしゃっているのです。
「波間の泡」というと、波に揉まれて生まれ、ぱっと消えるものもあれば、しばらく残って浮かんでいるものもあります。
でもみな同じように、プカプカと波に揺られてやがては消えていきます。
消えていないように見えても、よく見ると新しい泡と置き換わっているだけで、確実に生まれたものは消えていくのです。
鴨長明の有名な随筆、「方丈記」の序文には、「川面に浮かぶ泡つぶは、消えては生まれ生れては消え、片時もとどまることはない。世の中に棲む人も住みかもまたこれに同じ。」と書かれております。
大切なのは私たちの命は「泡のように儚く」、私たちの人生は「波のようにゆらゆら動いてとどまることを知らない」ということに「気づく」ということです。
それだけで、随分と気持ちが楽になり、ありのままを受け入れられるようになります。
それはまるで自分の心を仰向けにして静かに大の字になり、プカプカ浮かばせてみるようなものでしょうか。
もし人生が浮かんでいる泡のようなものならば、もがき苦しむより力を抜いてプカプカと浮かぶことを楽しめるような時間を多く持ちたいものです。
★今日の一句★
力抜き
プカプカ浮かぶ
楽しさよ