仏教に学ぶ生き方、考え方「お供物の心持ち」
私がまだ子供だった頃、先々代が自転車で法要から帰ってくると、お供物(おそなえもの)のおまんじゅうや団子をいただくのが楽しみでした。
でも先々代はすぐには食べさせてくれずに、本堂の阿弥陀様にお供えをして、ちゃんとお勤めをしてから、渡してくれたものです。
子ども心に「なぜいただいたものを、仏様にお供えするのだろう」と思っていました。
ある時、何かのときにそのことを訪ねたことがあります。
そうすると「まず仏様が食べてそのお下がりを私たちはいただくんだよ」と、目を細めて笑いながら答えてくれました。
でもどう見ても、仏様が食べたような跡は残っておりません。
きっとお腹がいっぱいで食べなかったのかな〜と思いながらいただいた記憶があります。
あれからもう随分と時が流れ、先々代、先代がお浄土に往生させていただいた今、「お供えの意味」がやっとわかってきたような気持ちがしております。
お供物をするとき、「自分から阿弥陀如来様に」お供物をすると考えがちですが、実はそうではないのではないと感じるのです。
何度も触れてきましたが、阿弥陀如来様は、私たちに「願いの光」を届けていただいております。
それは
「安心していいんだよ」
「何も悩まなくていいんだよ」
「私に任せてくれればいいよ」
という願いです。
でも、私たちには「煩悩」があり、なかなかその光を感じることができない自分がいるのです。
なので、私たちの煩悩も十分に知っている阿弥陀様が「お下がり」としてお供物を届けてくださっている。
そういうふうに考えるようになりました。
確かにいただきものは、ただ「品物が移動した」だけではなく、お互いの「心のやり取り」があるわけです。
そのやり取りは阿弥陀様が私たちに「ご縁」という形で与えていただいたものなのだと思っています。
その「目には見えないもの」を大切に考える、これこそが大事なのではと思っております。
☆今日の一句☆
お供えは
願いの光の
とどけもの
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