ほとけさまのおしえ「報恩講さんをいただくということ」
十一月になっても暖かい日が続いております。
でも今年もあと二ヶ月足らずになってまいりました。
真宗では年末にかけてお寺ごとに「報恩講」が勤まります。
この「報恩講」とはいったいどのような法要なのでしょう?
報恩講は他の仏事とは異なるところが沢山あります。
まず違うのが故人様やご先祖様の「菩提を弔う仏事」ではありません。
なのでご位牌を奉ることもありません。
また御荘厳も「華やか」になり、仏花も色鮮やかになり、蝋燭の色も「赤」になります。
何やらお祭り事のような雰囲気を想像してしまいますよね。
報恩講は文字通り「恩に報い感謝を申し上げる仏事」なのです。
ではいったい「誰のご恩」に感謝を申し上げるのかというと、それは真宗の開祖であられる「親鸞聖人」です。
では親鸞聖人は私たちにどんな教えを残してくれたのでしょうか?
親鸞聖人はまさしく一生をかけて様々な生き方、考え方を切り拓かれました。
それまでの仏教思想を打ち破る「斬新」なものだったので「誹謗中傷」も多く、実際に「越後への流罪」も経験されております。
親鸞聖人の一生の遺徳を語り始めたら時間がいくらあっても足らないでしょう。
親鸞聖人の教えは一言では到底言い表すことができません。
でもあえて一言でまとめるとすれば、それは「苦しみ悲しみの多い私たちに、阿弥陀如来様の願いがちゃんと届いているということ信じて安心する心を伝えられた」のだと感じております。
そして苦しみ悲しみとじっくりと向き合い、それらを「正しく見る」ことで心穏やかに過ごす生き方を求められたのではないでしょうか?
そしてその教えを、一番必要としている私たち凡夫の皆さんに「等しく届けられた」のだと思っております。
その教えをいただくことで芽生えた感謝の気持ちを表す法要が「報恩講」ということになります。
さて私が小さい頃はよく「報恩講さんをいただく」という言い方をしたものです。
よく年回法要も「いただく」という言い方をしたりしますが、その言葉に軽い違和感を覚えた人も多いのではないでしょうか?
こちらが準備して主催するのに「いただく」というのはなにか変ですよね?
でもこれこそが実は「仏教の考え方」に通じるのです。
というのは私たちは自分で求めて何かをしているように思っても、実は「いただいていること」がほとんどなのです。
例えばこの命も身体も意識も自分から求めたものではないですよね?
まさしく「ある日突然いただいた」ものなのです。
そして食べ物になっていただいた沢山の命のお陰で大きく「成長」もできたのです。
生まれ育った環境も人間関係もまさに全部いただいたものですし、こうやって日本語が話せるのも、いただいた教育や環境のおかげです。
そうやっていただいてばかりいるのに、もっともっとと求めたり、愚痴ったり、こんなものいらないと言ったりしているなんて、やはり私たちは「凡夫」ということを思い知ることに他なりません。
それを正しく見るために「報恩講さんをいただく」と言っているのではないかなと思うのです。
☆今日の一句☆
いただいて
いただき続けて
おる私