仏教に学ぶ生き方、考え方「ラッキーデイ」
「ラッキーデイ」
朝のニュース番組ではどのチャンネルでも必ずと言っていいほど、「星座占いコーナー」がありますよね?視聴率が落ちたり、チャンネルを変えようとするタイミングで、絶妙にこのコーナーがあるとついつい見てしまいます。そこでは星座ごとに運勢の順位がつけられて一番運勢が悪い星座になったときには「こうすればいいよ!」というワンポイントアドバイスが与えられます。そういうのを見てしまうと、「今日一日気をつけよう」とか、「今日しようと思っていたことを控えよう」とか思うものです。
科学が進歩した現代でも、まことしやかにこのようなことが信じられているのには、やっぱり何か運勢とか運命とかの力によって、左右されている心の有り様があるのではないでしょか?それでは仏教には、いわゆる「ラッキーデイ」なるものはあるんでしょうか?
実は仏教でもラッキーな日というのはあります。それはいつかというと「今日」という日がまさにそうなんです。なので仏教的には「毎日がラッキーデイ」ということになります。これを「日々是好日」(ひびこれこうじつ)と言ったりします。
いくらなんでも毎日がラッキーなんてないでしょう?今日はこんな嫌なことがあったし、朝から遅刻もした、今日はついてない日なのになぜラッキーなんだよ?という声が聞こえてきそうですね。
でも仏教で言うラッキーデイとは、自分の心の煩悩から出た都合で考えるものではないんです。もっと言えば、こうやって今生かされている、そのことでもう十分ラッキーなんです。
お釈迦様が人間に生まれることの難しさを、お弟子さんに聞かれた時にこう答えました。「広い海に穴の空いた丸太が浮かんでいて、そこに百年に一度亀が息継ぎのために首を出す、その亀の首がたまたま浮かんでいる丸太の穴にすっぽり入るくらいの確率である。」と答えられたのです。
いくらなんでもそんなことはないでしょう?と言いたくなりますが、でも考えてみれば人間として生まれこのように自分という意識を持てるまで成長する確率は、もしかしたら丸太の穴よりもっと狭いかもしれません。そうであるにもかかわらず、煩悩があるがためにその事実が曇らされ、もっともっと、、、と、運勢を頼りに求め苦しんでいるのです。「この世に人として生まれた」という奇跡的な出来事も現実として起こってしまえば、それが当たり前になってしまうんですよね。それに気づかずに、今日を「運が悪い日」と過ごしてしまっては本当にもったいないと思います。
星座占いで今日が運のいいとされる日が三分の一だとすると、人生の三分のニは運に恵まれず、自分のしたいことやできることを控えてしまうことになります。つまりせっかくの人生の三分の一しか使えないことになってしまいます。もし百年間生きたとしても、三万六千五百日、そのうちの一万二千日余りしか運に恵まれないとしたら、、、と思うとゾッとするのではないでしょうか?
だから毎日が最高の日であり、自分を輝かせて生きられる日と思い、心の赴くままに自由に今を生きていけたら、それほどラッキーなことはないですよね!今日もラッキー、明日もラッキー、明後日も、、、日々是好日で毎日を有意義に過ごしたいものです。
☆今日の一句☆
今ここに
いることこそが
ラッキーです
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