ほとけさまのおしえ「百年後」
時々、こんな「想像」をすることがあります。
それは「百年後」の未来がどうなっているかです。
劇的な「医療革命」でも起きない限り、私たちはほぼ「命を終えている」でしょう。
火葬され「お骨」となってお墓に「埋葬」されているはずです。
亡くなってしばらくは「子どもたち」がお墓に時々は来てくれるでしょう。
でもその子どもたちも「やがて」命を終えることになります。
そして「孫の子の世代」には、「私がどんな人だったか」も想像できないはずです。
私が手に入れた物のほとんどは、「壊されたり捨てられたり」していることでしょう。
大金をはたいて購入したマンションやマイホームや自家用車も、ほとんどは「建て替えられるか買い替えられている」はずです。
そして子どものためにと残した「財産」は誰かの財布に入ったり、税金に取られたりします。
よほど「大きな事業」でも行わない限り、歴史に名を刻むこともありません。
仮に歴史に名が残ったとしても、私がいないことを悲しんだり、逆に親しみを感じたりはしないでしょう。
つまり私たちは百年後には「存在さえ」忘れ去られるのです。
そんな儚い存在である私たちが「今このとき」をどう生きようとしているのか?
そのことを心に響かせれば、「世界のすべて」が違った見え方になるのを感じるはずです。
☆今日の一句☆
忘れるな
私はそれほど
生きられない
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