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旅日誌②

日本の有名武将4人を魅了した仏様がいる。
その名も「御本尊善光寺如来像」である。
その名の通り、信州善光寺の仏様で、仏教伝来とともにやってきたとされ、実際に生命が宿っている霊像として深く信じられてきました。しかし、絶対秘仏のため人々が目の前で拝むことができないため、前立仏(秘仏の身代わり)として「阿弥陀三尊像」が造立しました。そして、現在「阿弥陀三尊像」は旅日誌①でお話したお寺(甲斐善光寺)の御本尊として安置されております。

この信州にある「善光寺如来像」。在銘最古、かつ例外的大きな等身像なゆえに、戦国の世の波にのまれ大変な思いをした仏様でもあります。

①甲斐を治めていた武将(武田信玄公)が川中島の合戦の折、信州善光寺の焼失恐れ、諸仏寺宝類を甲斐善光寺に奉遷(移した)した。

②武田氏滅亡により、織田信長により(長男信忠説あり)現、岐阜善光寺に奉遷。その後本能寺の変がおこり、次男信雄により尾張甚目寺へ移座。
③徳川家康が請受し、遠江鴨江寺に遷座。家康の夢枕に立ち「帰座を希望」。一旦甲府に帰座。
④しかし、豊臣秀吉が京都の大地震で崩れた方広寺大仏の替わりに善光寺如来像を壮麗な行列で入洛させる。しかし、秀吉、病により(善光寺如来のたたり説あり)40年ぶりに信州善光寺に帰座する。
(ちなみに、秀吉は善光寺如来像が信州へむけて京都から出発した次の日に死去。)

私達の40年は人生の半分、いや半分以上?人気ものがゆえの事。
位の高い仏様でも駆り出される乱世。仏様は何を思っただろう。そして、4人の武将は何を願ったのだろう。
今より、はるかに神様仏様が身近にあった。「仏の子」という言葉を思い出した。今からでもなれるかな。
「善光寺如来様、本当に心からお疲れ様でございました」。


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