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コメンタリーとコメンテーターに対する好き嫌い

前回、ChatGPTの生成結果に対し、私本人によるコメンタリーをしてみました。
私本人のコメンタリーであるというのが大事。
そこは強調しておきたいです。

コメンタリーは人選で決まる

私はコメンタリーに対して、両極端なイメージを持っています。

副音声で出演者自らが当時の裏話をするような、とても良いコメンタリーもあれば。
コメンテーターが茶々を入れているに過ぎない、とても悪いコメンタリーもある。

私は、コメンタリーそのものには、良いも悪いもないと思っています。
しかしながら、コメンタリーは、その良し悪しが如実に出ますね。
その良し悪しは、概ね、人選で決まります。

出演者自らが当時の裏話をするコメンタリーは、優れたものが多いイメージがあります。
一方、出演者自らではないコメンテーターだと、そうでもないイメージになっていきます。

ここで言うコメンテーターとは、原義ではなく、テレビなどのコメンテーターを意味します。

コメンテーターになりたがる奴は多い

コメンテーターになりたがる奴は多いのです。
テイカーがコメンテーターになるのを好むので、そうなってしまいます。

私はかつて、テイカーのセルフイメージについて述べたことがあります。

テイカーのセルフイメージは、助言者や審査員。

上記拙稿より筆者引用。

人が実行したことには評論をやり、減点をして、審査員のように振る舞う。
普通はこうだ、と普通を振りかざしながら。
審査員どころか異端審問官でしかないわけです。

同上。

上記拙稿は、テイカーのセルフイメージとして、助言者、審査員、異端審問官を挙げています。
今回の話であれば、テレビのコメンテーターにも当てはまると思います。

テレビのコメンテーターのように喋るテイカーは嫌という程にいます。

何故か。
テイクするのに便利だからです。

実務者でなく、査定者に回ることが出来るから、テイカーはコメンテーターを好むわけです。

だからこそ危ない。
平常時でも危ない。震災時はもっと危ない。

上記拙稿は、そういうテイカーへの備えと構えを述べています。
被害者の人は参考にしてほしいと思います。

「私は構わないんだけど」という布石

テイカーが「私は構わないんだけど」などという言葉を常用しているのは、コメンテーターになるための布石であろうと思います。

「私は構わないんだけど、どうですかね。」
「私は構わないんだけど、他の人は?」

そう言っておけば、コメンテーターになれます。

「構わないとは言ったけど、どうたらこうたら」とひっくり返すことが出来るからです。

これはテイカーが、実務者の一人としてでなく、査定者の一人として喋っているということです。

これはテイカーに限った話ではありません。
フレネミーでもそうなんです。
フレネミーこそが、その典型です。
(フレネミーとは友達ヅラした敵のこと。)

テイカーやフレネミーが、我々の決定だと思っていないために、そう喋っているのです。

我々の決定だと思っていれば、言い切れます。
「私は(一員として)構いません。」となります。

「私は(貴方の決定でも)構わないんだけど」と、我々の決定ではなく貴方の決定にしているのが、見え透いているのです。(隠れていないのです。)

テイカーは外野のコメンテーターとして喋れば、一方的にテイクが出来るから、そう喋っていると捉えると、理解が進むものと思います。

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