中興の祖は誰がなるべきか3
中興の祖は誰がなるべきか、について、私見ではあるのですが、続きを述べます。
私はずっと、創業者に似ている人間が良いのだ、と述べ続けてきました。
創業理念の具現化(具体化)が、承継の成功を生むのだと。
もう一つ大事なことを述べていませんでした。
それは、創業理念の抽象化です。
創業理念とは
創業理念って、最終的にはソーシャルビジネスのような形にならざるを得なくなりますよね。
公益が無いと続かないから。
黒字でないと続かないから。
江戸型ソーシャルビジネスから令和型ソーシャルビジネスに至るまで、抽象化の行きつく先には、公益を追い求めて、黒字を続けること、になると思います。
ゆえに、昭和型ビジネスモデルで上手くいかなくなったなら、創業理念は、柔軟に解釈されるべきであると思います。
中興の祖は、時勢に合わせて、創業理念の具体化ができる人が望ましい。
その創業理念は、抽象化と具体化の往復があったものが望ましい、ということになるでしょう。
中興の祖はいつ出やすいか
史実から事例を見ましょう。
史実上、中興の祖はいつ出やすいか。
創業理念の抽象化と具体化の往復が、あった時にこそ出るのです。
前回は徳川家を事例に出しました。
徳川家の中興の祖は、吉宗や家斉のように、直系男子が途絶えた時に出ます。
大抜擢によって、中興の祖が生まれたということです。
経済政策上の瑕疵はいくらでもありますが、前例踏襲を打破するためには、創業理念に立ち戻ってみることが最高効率だったということです。
明治維新もそう。
あれは御一新と言っておきながら、初期の初期はひたすら復古です。
王政復古の大号令はその名の通りです。
数年間だけの律令国家の職(平安時代みたいなもの)が乱立したのは、復古のためです。
戦前、特に戦中、北畠家が崇拝されたのは、建武の新政が天皇親政だった側面を否定できません。
江戸でも明治でも、時代に合わせた復古をやってみよう、とした時に、中興の祖が出たのです。
落語は別です。
あれは伝統芸で、個人芸ですから。
芸である以上、個人の側面が大きいです。
囲碁の井山みたいな超天才が出たら、初代何々になる世界です。
本因坊文裕、井山裕太は超天才で、もし江戸時代に井山がいたら、初代何々になったでしょう。
藤井聡太もそうですね。
私が述べているのは、経営者のことなので、より良い復古に踏み切ろうとした時にこそ、中興の祖が出やすいのでは、ということです。
あくまで私見ですが、そう思っています。