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こころざし(3の1)「挫折篇」【エッセイ】一六〇〇字

 小さいころから「“小山” の大将」だったように思う。
 父親は農林省食糧庁(いまはない)の検査官。米や穀物などの等級を決めるのが仕事。農家にとっては収入に影響するだけに、癒着を避けて短期間で異動する。したがって、転校が多い。道央を中心に小学時代に4度も。そして、暮らしたのは、農村地帯の小さな町ばかり。学校は、学年1クラス。団塊の世代にしても、クラス40名くらい。転校生がいじめに会うことなく平穏に過ごすには、勉強ができるか、野球が上手いことが必須。幸い、小3のときから父親から特訓をうけていたので、野球は得意。勉強は、転校を前提に先回りして教科書をこなしていたので、優秀な部類に入った。
 こじんまりした集団、“小山”程度であれば大将になれるコツを会得していたのだと思う。中学は学年4クラスだったので、まだその位はキープ。しかし高校からは、そううまくはいかなかった。北空知の進学校だったので、各地域から上位の者が集まってくる。よって、中学までのノウハウでは、通用しない。8クラスで、1学級50名位はいただろうか。上位50~100番以内なら、東大を先頭に「内地の」国立、北大、六大学などの有名私立には合格する。入学当初は、そのゾーンに属していた。しかし、人生なかなかうまくはいかないもので、勇んで入った野球部での挫折、結核による長期入院し、留年時には、“はみ出し者”になっていた。
 そんな高校生活で終えたせいか、その後は、ひたすら競合のない道を選んできたような気がする。

 紆余曲折(留年+2浪)がありながらも、東京の私立大学を4年の卒業予定で、求職活動に入った。当時、大成長の兆候があったリクルート社の説明会で、年齢制限の厳しさを知る。ブームだったファッションメーカーから、かろうじて内定が出たのだが、ふと思った。「競合」ある世界は、自分には向かない。注目されるまで“1歩半”手前の業種を選ぼう。そんなころ、大学4年間バイトしていたハンバーガーのイートインショップのオーナーから、ファミリーレストランのチェーン事業をやらないかと、誘われる。
 最初から経営者であり、しかも新しい業態について学べると、バイト仲間ふたりと一緒にやることを決断した。
 すでにレストラン3店舗を群馬で展開していたので、その現場実習からスタート。チェーン化理論を学ぶために、青山にあった、渥美俊一氏が主宰するチェーン化理論の研究所にも通った。仲間一人は、商品開発担当。ひとりは、新卒採用担当。そして自分は、店舗デザイン・接客マニュアル作成担当と分担。大阪や名古屋で展開しようとしている店舗も視察もする。休みなく働いた。いや働いたという意識はなかった。大学の経営研究会の延長のような感覚であった。
 接客マニュアル作成に当たって、スパイまがいなこともした。当時、10店舗も出店していなかった“すかいらーく”の1号店(国立店)に、フロア係として、潜り込んだ(そのバイト料もいただけた)。当然、(喉から手が出るほどの)接客マニュアルを見て勉強する。コピーをしたり、写真に写したりはできないので、頭に叩き込み実践でマスターしていった。そんな(スパイ行為の“真摯”な)姿勢が評価されたのか、その店の店長から社員として会社に推薦したいと言われたが、むろん、ウソをついて丁重にお断りした。

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 結果、2年後に事業計画書が完成した。が、想定外の金額におじけついたのか、中止となった。新卒5名に内定を出したあとに。仲間2人と一緒に、彼らへ弁償の支払いをオーナーに飲ませ、淡い夢と終わってしまった。

 三十路前まで会社を2度変えたが、20代の体験は、30歳から17年勤める会社、そのあと独立し、WEBデザイン会社を20年展開することにつながったと思っている。
通した“こだわり”は、「“小山” の大将」であった。
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 会社勤め時代、独立時代での体験は、おいおい綴りたい。華々しい成功談ではないが、若人への事例のひとつとして、参考になればと考えている

TOP画像は、「代官」さんの旅ブログ「47の記憶」から。
https://47memory.com/blog-entry-410.html

(おまけ)
当時、米国ではチェーン展開理論による業態が進展しており、成功していた。スーパーマーケットやコーヒーショップ(ファミリーレストラン)である。日本では、ダイエー(現在イオン傘下)、イトーヨーカドー、ジャスコ(後のイオン)などのスーパーマーケット、レストラン関係では、すかいらーく、デニーズ、ロイヤルホストとマクドナルド・ジャパンなど、である。

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