見出し画像

結核病棟(5の3)【エッセイ】一八〇〇字

               ※
 白木さんは、道新(北海道新聞)を読みながら、「公務員は、『公僕』です。公衆に奉仕しているのであって特定の個人にではない」と、よく口にしていた。
 と言っても、近年相次ぐ汚職事件のような公務員の信頼を欠くようなニュースは、当時はなかった。白木さんのように公務員はまともだったように思う。私の父も農林省食糧庁の役人だった、妻や子どもに暴力を振う乱暴な男ではあったが、仕事に関しては固すぎるほどの男。米の検査が厳しすぎて木刀で殴られそうになったくらいだった(らしい)。そこは、海軍出身。相手をボコボコにした(と話していたが、事実かどうかはわからない)。ただし、上司には「へなまずるい(北海道方言 とても悪賢い)」と感じていたひとがいたらしく、柔道技で投げたというのは事実。なので、出世には縁がない男だった。
 白木さんは片肺を切除したようだが、元軍人らしく姿勢も良く、まさに泰然自若たいぜんじじゃくとしたひとだった。しかし、戦争の話は一切しなかった。よほど辛いことを経験したのだろう。それを顔の皺が語っていた。
 白木さんを象徴するような、出来事があった。
 退院も近くなった5月。大きく揺れた。「1968年十勝沖地震」である。函館で震度5。滝川の震度は4だったが、古い木造だったこともあり、それ以上に感じた。5月16日。午前10時くらい。52人の犠牲者が出たほどの大きな地震だった。
 午前中なので、みなベッドで横になっていた。横揺れで、白木さんの枕もとの上にあった食器棚が倒れそうになっていた。しかし白木さんは目をつむったまま。まさに泰然自若たいぜんじじゃく。私はあわてて、その棚を手で押えた。
 揺れが治まって、「白木さん、さすがですね。まったく動じない」と言うと、「いや、腰が抜けて動けなかったんだよ」とニヤっと、片目をつむった。浪曲師のようなダミ声ながらもチャーミングなひとだった。
 
 私のように軽症でも、半年。長期入院が続くひとが多いので、病棟には定期的にイベントがある。映画や、演奏会が集会場で行われた。いま考えると、市立病院の結核病棟に入っている人は、無菌の患者だったのではないかと思う。マスクをしているのは、看護婦や掃除・配膳のおばさんだけ。重症患者は、個室で隔離されるか、『菜穂子』のような高原のサナトリウムに収容されたのだろう。
 イベントの中で楽しかったのは、「大相撲勝ち力士予想」。毎日、朝に看護婦が、その日の取組がガリ版印刷された用紙を配る。予想した勝ち力士に〇を付け、締切までに集会場の箱に入れる。柏鵬時代である。北の富士も大関だった。集会場のテレビで観戦するか、部屋のラジオで聴くか。集会場からは、一番ごとに歓声が響く。日々の当番が集計し、縦横3mもある一覧表に当たりはずれの〇×を記入する。上位に入ったことはないので、わからないが、上位10位までには賞品がでたように思う。白木さんは、その患者会の会長をやっていた。

 白木さんはときどき自宅に戻ることがあり、留守することがあった。そんなときは、部屋で麻雀が始まる。といっても、花札のようなものにパイの絵柄が印刷されているものを、針金で造られたものに立てる。松田さんが教えてやると言ってくれるのだが、受験の勉強があるのでと、教科書を読んでいるふりをしながら横目で見ていた。紙のパイなので、音では見つからない。足音が聞こえたときは、布団で隠す。むろん、看護婦は気づいていた。


紙麻雀(そのときは、花札のような紙に印刷されていた)

 白木さんが部屋にいるときは、麻雀は大部屋でやっていた。そのときには、松田さんに誘われ、私は入口で看護婦が来たら合図する役目。麻雀で、大部屋の人たちとも知り合いになっていった。むろん、私は自ずと麻雀を覚えてしまった。

 ゴールデンウィークが終わり、桜も散った5月。大部屋に遊びに行っているとき、バレーボールをやっている音と歓声が聞こえた。
 准看護婦学校生だった。その市立病院には、「准看護学校」が併設されていた。学校は、2年制。中卒資格で入学できる。学校に通いながら高校の定時制に通い、高卒資格を得た後、一定の実務経験を経れば、正看護婦の国家試験受験資格が得られる。コートの中に、同じ中学で同級だった高見沢さんという子がいた。

(とりあえず、つづく。たぶん)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?