見出し画像

密談【エッセイ】二〇〇〇字

 17年勤めた会社で起きた“クーデター”の話である。最近の「出来事」を見るにつけ、30年以上前に記憶が戻った。といっても、昨今の「物騒なこと」、血なまぐさい内容ではない。
                  *
 お茶の水、明大近くの地下にある12席しかない喫茶店。普段は利用したことがないので正確な位置は覚えていない。30分に1人、次々とやってきた。

image03_とちのき通り、文化学院

(明治大学からアテネフランセ方面へと続く、とちの木通り)

 34年前。37歳のとき。神田猿楽町にあった翻訳教育会社にいた。私は、通信教育と通学教育の広報を担当する責任者をやっていた。ある日、社長室に、1つ下で3年先に入った教育事業部の責任者・発田ほったと、2人が呼ばれた。
 「常務が“クーデター”を企んでいるよ(笑)。本社の社長室のTさんからの情報だけど。Yさん(親会社の社長)を巻き込んで」と聞かされた。
 社長は中大大学院で修士を取得後、親会社に入社し6年。翻訳教育事業部長をやっていたのだが、子会社として独立することを社長に説得。女性ながらも辣腕を発揮し、77年に独立。社長の1つ下、親会社の編集担当S氏も常務取締役・編集長として参加。翻訳教育、翻訳学習書出版、翻訳受注の事業を展開する。

 私と発田は、まず意思を確認し合った。会社を発展させてきたのは社長の実績であること、常務にその経営能力があるとは思えないことで、一致。
 「発田さん、社員全員から署名を集めないか」
 「ああ、もちろん。僕らの動きがバレたら、たぶん会長に首にされるだろうけど。だから首謀者はボクでいいよ」と発田の決意を、嬉しく思った。
 彼は、大手上場会社の役員を父にもつ財産家の息子。再就職もどうにかなるからと言う。私は、そんな当てはない。が、20代で転職を2回経験しそんな余裕はないにしても、独身。なんとかなるだろうと、思っていた。
 「いや、オレもやめるよ。俺たちが辞めればいい。それを条件に社員全員を引き取ってもらおう。発田さんさ、もう1人加えよう、円山も。ヤツは、常務の月刊誌への編集方針に不満を持っている」

画像2

 「あ、もちろん。そうすれば、教育、広報、出版と手分けできるし」
 この話は、社長にも内緒にすること、署名が集まったところで、「ソレ」を見せ、社長の決断を仰ぐことにした。

 さっそく3人は、「密談」の場所として、常務とバッティングしそうもない3か所の喫茶店を選んだ。話の内容は仕事の打ち合わせとし、各事業部の社員を順に呼び出すことにする。当時の社員数は、80名位。1人25名。残るは名古屋と大阪の地方校。東京を抑えることができたところで、社長の妹に直前に打ち明け、担当している地方校の事務局員を説得してもらおう、ということになった。

画像4

ご存知「神保町さぼうる」
※記事内容と関係はありません
(昨年12月31日にマスターの鈴木文雄さんがご逝去。現在休業中のようです。よく行きました。「さぼうるでサボル」なんて言っちゃったひとが多かったのでは?)

 呼び出された社員は、計画を聞かされ最初は驚きと不安の表情を浮かべていた。が、失敗すればわれわれ3人が辞めて責任をとり、みんなには残ってもらうからと、説得した。その熱意に応えてか、次々と賛同、署名してくれた。むろん、印鑑なんかない。そこで、「血判状」だからと、拇印を押してもらった。

 1日25名は厳しかったが、1日目の夜まで、そのほとんどを説得。2日目には全員の署名が集まった。

 4日目。われわれ3人は、興奮気味に社長室に向かった。
 リーダーの発田が、その「血判状」を渡した。
 社長は笑みを浮かべて受け取り、「ありがとう」と言ったあと、次の展開について説明し始めた。われわれが動いていることが分かっていたかのように(たぶん、妹から聞かされていたのだろうが)。
 社長は、顧問の税理士は会長と関係があるので、新規に契約した会計士と法的な手続きを段取りし、実行に踏み切った。
 彼女の財産のほとんどを持ち出し、会長が保有する株を買い取ることと、常務への5,000万円を超える退職金を支払うことを条件に、完全独立を実現したのだった。

 われわれ3人で、常務の送別会を催した。経営者向きではないと思いながらも、編集者としては優秀だった。財前五郎役・田宮二郎似、洒脱な雰囲気に男の色気を感じていた。よく飲みに行き、カラオケにも行った。彼の美空ひばりの歌が好きだった
 常務は自分が仕掛けたと口裏を合わせていたが、会長の企みと思っている。会長は、在日コリアンに対するヘイトな考え方を持っているひとで、いかがわしい雑誌も地下組織で販売しているようなうわさも聞いていたのだった(だから、社長は会長と社員を合わせたことはない)。しかし会長は、その後、親会社を一部上場を実現し、(たぶん皆さんご存知の)大企業にしている。
 その“クーデター”騒動の後、円山は編集長に、発田と私は、「論功行賞」と言われても仕方ないが、1年後に常務取締役になった。

 社長室には、しばらくその「血判状」が飾られていた。

(しかし、人生は分からないもの。10年後に、私は社長と販促方針でぶつかり、当てがあるわけではなかったが、独立。円山はその1年前に退社し、思想書専門の出版社を興し、いまも続いている。ちなみに発田は、「バベルの塔」のごとく崩壊した会社に残って、社長を学長にし、ネットを使った翻訳教育を翻訳大学院としてハワイから発信している)

いいなと思ったら応援しよう!