こころざし(その3の3の3)「オンリーワン」篇【エッセイ】二四〇〇字
このシリーズはそもそも、note仲間のBlog副代理さんから、「起業を志す若い人たちへのアドバイスになるような記事を書いて」というリクエストがあり、スタートしたもの。しかし・・・そのご当人は、最近、ご多忙のようで訪問していただいていない・・・。(笑
失敗話なら面白がって読んでいただけるでしょうが、後半は、曲りなりにも成功談。若人なら、ひとりの年寄りの人生を、「ふ~ん。ま、そういうこともあるかもね」となるだろうけど。わがフォロワーさんたちに、若いひとが少ない・・・。(笑
なので、とりあえずはこの話を最終回とし、今後はエピソードごとに記していきたいと思います。
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社会に出てからは、たえず「オンリーワン」を目指していたように思う。と言っても大袈裟なことではなく、流行するかもしれない、一歩半前のモノ・コト。
20代で挑戦し、失敗に終わった「ファミリーレストラン・チェーン」。30歳から17年勤めた会社の「翻訳教育」「通信教育」「ダイレクトマーケティング(無店舗販売)」と、まだ注目される前。そして、独立して選んだのが、黎明期の「インターネット」。すでに話題になっているモノ・コトは、始めるには遅すぎる。いまの例で言えば、「メタバース」。すぐに1%以下の企業に集約されるだろう。いまからでは遅い。かつ投資額が桁違いになる。
選んだ「オンリーワン」の考え方は、四つあった。
・固定費ゼロ
・リモートワーク
・一社に集中した取引先
・どこも始めていない商品
固定費ゼロ(厳密にはゼロではないが)
47歳を前にした春に創業。大志を抱くには、少々遅すぎる。前の会社の退職金の大半1,300万円を資本金に始める。資本金と言っても、売上があがるまでの生活費と言った方が正しい。固定費が損益分岐点のベースになる。低ければ低い方が良い。自宅を事務所にすれば賃貸料の固定費もゼロにできる。が、生来、怠惰な性格のワタクシ。仕事できる環境へのコストだけは冒険した。あとは、極力、変動費。スタッフの経費は、内勤以外は外注費。
スタッフの給与は、基本額(基本給的性格)+出来高払い。不安定になりそうな分、他社より多く支払うようにした。
幸い会社の売り上げが右肩上がりだったので、昇給が続く。チーフデザイナーの大隅くんが30歳になるまでには、彼の年収を1,000万円にすることを目標に掲げた。
リモートワーク
いまでは普通のことではあるが、スタッフは、いわゆる「リモート勤務」。ネットで仕事ができるので、自然な成行きだった。交通費や備品等の準固定費も、抑えられる。しかし当時、WEBデザイン専門会社は(ごく少数だったにせよ)、デザイン会社っぽい洒落た建物に集合する従来の勤務形態が全てだった。会社スペースに多くのデスクが並ぶことに、ステータスを感じる経営者が多かったのだと思う。
一社に集中させた取引先
通常、「取引先を限るとリスキー」と言われる。しかし、伊勢丹だけにした。伊勢丹と言っても、支店や子会社が数多くあるので、厳密には一社ではない。が、伊勢丹グループ全体がコケたら、潰れる。
しかし、そんな一社に絞る会社は他にないので、こちらの信用につながる。「裏切るようなことはしないだろう」と。目論見通りに、後に「伊勢丹専属のWEBデザイン会社」という肩書を使うことを許された。その肩書をスタッフの募集広告で使うと、優秀な人材を確保することにつながる。伊勢丹ファンのデザイナーがけっこう多かった。
どこも始めていない商品
<通信教育「実践WEBデザイン塾」の開発>
WEBデザインの取引先は伊勢丹一社に絞ったのだが、あまりにもリスキーなので、別の業態の商品を開発した。WEBデザイナーを養成する通信教育講座である。通信教育のノウハウは独立前の会社で学んだ。結果、インターネットで展開する「実践WEBデザイン塾」につながった。教材は、CD。制作ソフトの操作方法を、録音した音声とモニターのポインターの動きをキャプチャーした動画とを編集する。添削は、掲示板。講師は、大隅くんと助手のデザイナーたち。定期的にコンテストを行い、課題は受注した素材を使い、最優秀作品は伊勢丹サイトにアップすることとした。特に優秀な受講生は、スタッフに採用する。そんな流れである。
開発は、たまたまデザイナーとして採用した上智大四年の高橋くん。偶然にもプログラムの知識があった。三年までに単位を全て取得したらしく、一年間、開発に協力してくれた。
彼はWEBデザイナーを目指していたのだが、デザインでは大隅くんに勝てないと、プログラム開発の会社に就職した。
<デジタルカタログ・システムの開発>
デジタルカタログは、(いまでは普通になっているが)紙のカタログをまさにページを開いているような感じで、インターネットで読むことができるシステムのこと。
開発前は、ページ画像をクリックすると拡大して読むことができるという仕組みだったが、「こんな悲しいできごと」が契機となって開発することになる。
「伊勢丹専属」の肩書をいただく前。ある年の大晦日。取引先の部長に年末のご挨拶で訪問した際、こんなことを言われる。
「菊地さん、デジタルカタログのシステムを売りに来ている会社があるので、使おうと思っている。いま菊地さんのとこでやっているシステムから変えたいのだけど」
「ええええ!! それは困りますよぉ・・・。でも、それはマックでしか見られないですよね?」
「確かに。じゃあ、菊地さんのとこで、開発できる? 1か月で」
そんな話を受け、トボトボと事務所に戻った。雪が降っていてとても寒い日だった。
戻るなり、システム開発に強い顧問の佐藤氏に相談。かなり難しいと言われたが、開発費を弾むからと、正月からさっそくプログラム開発をスタートする。
何度も失敗を繰り返したが、タイムリミットの1か月後にギリギリ間に合った。このシステムが、売り上げに大きく貢献することになる。
これらのことを最初から、計画的に展開できたわけではない。「成り行き」だったと思う。そもそも、私の生き方が「アメーバ」人生だったように。その都度の「刺激」ある方向に動いていった結果、と思っている。
会社も「オンリーワン」でなくなってきたら、スタッフを引取ってくれるだけの余力があるうちに整理しようと決めていた。
さてこれからは、人生の「オンリーワン」。しかし、「私」以外には、「わたし」はいない。世界で一人。まさに「オンリーワン」。しかし、「私」らしさを探す方が、一番難しいのかもしれない———。
私は、46歳での起業だったので、「丘」「小山」の大将にすぎなかった。しかし若人よ、キミたちは、
“BOYS BE AMBITIOUS”である。
(おまけ)
ミュージシャンの後藤正文氏が朝日新聞で書いている連載エッセイが好きだ。<朝日新聞朝刊:10月12日(水)>
TOP画像は、
さっぽろ羊ヶ丘展望台のクラーク像 ©時事通信社
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