能登半島:奇跡の3運動で原発事故を阻止
「珠州(すず)原発がなくて良かった」―そこにかつて原発建設計画があったことを知る人は皆、思った。2024年元旦の能登半島地震で道路崩壊、家屋倒壊、集落孤立、海岸隆起、通信断絶、断水、停電、そして、外から救援・救護に向かうことも困難なありさまを見て。
しかし、実は、志賀原発(志賀町)の反対運動があったからこそ、珠洲原発(珠洲市)は阻止できた一面があったと知った。3つの運動とは何か、この旅で見てきたことを簡単に記録しておく。
旅とは「能登半島原発バスツアー629」
「『さよなら!志賀原発 全国集会 in 金沢』(チラシ)に行くなら、前日にちゃんと現場を見に行こうという話になって、僕がバスを手配して、七澤さんが企画」と、このツアーの趣旨を説明してくれた「僕」とはTBS報道番組でお馴染みの金平茂紀さん。
「七澤さん」とはNHK記者時代にドキュメンタリー番組「原発立地はこうして進む 奥能登・土地攻防戦」(1990年)などをてがけた七澤潔さん。
案内役を珠洲市の寺家(じけ)と高屋(たかや)の2地域にあった原発計画の反対運動を駆け抜けた北野進さん(元石川県議・元珠洲市議)が引き受けてくれて成り立った。2024年6月29日、20人乗りバスで奥能登と志賀原発を回った。
半減した志賀原発の敷地
北野さんによれば「北陸電力が志賀原発の計画をもってきたのは1967年。全国の原発で、具体的に電力会社が計画を表明した5番目だそうです。しかし、1号機が動き始めたのは1993年4月」。
共有地運動を含む長く激しい反対運動によって、北陸電力は4度の計画縮小に追い込まれ、買収面積は154万m2へと半減した。逆に言えば、敷地を縮小して共有地をかわしてできてしまったのが志賀原発だ。
そこから学んだのが、中部電力が計画した寺家と関西電力が計画した高屋の原発への反対運動だった。共有地運動をしても、事業者が用地をズラして用地買収が進めば、計画が進んでしまうことを学び、敷地よりも広い範囲に、数多く共有地を点在させて、計画断念に追い込んだ。
「まぼろしの珠洲原発」事故が阻止できたのは奇跡
珠洲原発(寺家と高屋)と志賀原発の3カ所で起きた反対運動の歴史。1日かけて北野さんから聞いた話を凝縮していえば、そういうことだ。「志賀原発はできちゃったけど、珠州原発ができなくて良かった」ではなく、実は「先行していた志賀原発の反対運動があったから、珠州原発ができなかった」ということだったのだ。
中部電力と関西電力と北陸電力の3社で共同開発の形態を取っていた珠洲原発計画がすべて一度に2003年に凍結(事実上の撤退)に追い込まれたのも、2地域の運動双方がうまくいったからだ。寺家では、地権者95戸中の45戸が強固に反対し、中部電力の推進力が効力を持たなくなった。高屋では、地権者だけではなく、あの手この手(*)での阻止活動が住民と市民によって展開された。
「もし、寺家で止まっていなかった『あっちが進んでいるんだから』と、高屋でどんなに頑張っても押し切られたかもしれない」と北野さんは述べた。
3つの運動があって初めて珠洲原発は凍結となり、今年元旦の地震で、福島第一原発事故のような過酷事故を起こさずに済んだのだ。
道中で見たもの
「のと里山街道」を北上
一行は金沢駅に集合。地震で寸断されていた「のと里山街道」を北上。車窓に流れていく修復中の崩壊道路、崩れた土砂、倒壊した家屋、歪んだ電柱、津波に撃ち抜かれた家屋に、身体も心もユサユサ揺れながら珠洲市寺家を目指した。
寺家地区で立ち寄った須須神社の脇に立つ「キリコ会館」は、日本遺産「キリコ祭」で使う重さ4トン、高さ16.5メートルの巨大な灯籠を収める倉庫で、中部電力が地域に寄贈したもの。原発マネーの名残だ。
【タイトル写真】
志賀原発(左奥の排気塔)の用地を半減させた反対運動の団結小屋。(2024年6月29日筆者撮影)