見出し画像

美人の初期装備に自己肯定感があるとは限らないわけよ


はいどうも、ご無沙汰してます、八木まさみです。
結婚してから4年間、主婦業に勤しんできましたが
八木仁平の妻、という、呼ばれ方に虚しさを感じてきたので
のこのこ戻ってまいりました。

そこでいきなりのこのタイトルです。
ずっと言いたかった、でも言ったら多方面から怒られそう。
それでもやっぱり言いたくなっちゃった。
そんな話を今日はしていきます。

覚悟してついてきてください。

で、まんまタイトルの通りなんですけど
皆さんもご存知の通り、私は世間一般でいう「美人」の部類です。
美人といってもさまざまな種類の美人がいると思いますが
パートナー選びで困ったことはないくらいの「美人」です。
モデルやなんやらさせていただいたくらいのレベル感です。

顔タイプ診断でも「顔のパーツバランスが黄金比ですね!」
と言われるくらいには持っているものは良いようです。

加えて女子の憧れブルベ夏冬の色白ときています。
コスメカウンターや美容室に行けば小顔だ色白だと持て囃され
「ああ、この顔は他者からそんな風に評価されているのか」と
30歳になるまでにゆっくりと理解してきました。


さっきからやけに自分の容姿に関して人ごとのように語っておりますが
実は私、何を隠そう、30歳になるまで
鏡で自分の顔、体を見ることができなかった人間でした。

ポーチに鏡なんて入れて持ち歩き始めたのはつい最近ですし
大きい鏡なんて特に嫌いなのでトイレでメイク直しもできませんでした。
ショッピングで洋服を選ぶ際に鏡を見るのが苦痛なので
試着せずに買うという生活を続けてきました。

それは私が美人で自信があるからでもなんでもなく
ただただ鏡で自分を見るのが嫌で嫌で仕方なかったからです。

鏡を見れば
「ここがダメ」「ここもダメ」「ああ全然ダメ」
「こんなんじゃ生きてる価値もない」
そんなことしか頭に浮かばず気持ちが沈んでいました。

どれだけダイエットで痩せようが
私の歪んだ認知が影響して鏡を見ると自己批判が止まらなくなります。

お店の鏡は細く見えたりして信用できないので
結婚する前は両親に、結婚してからは夫に
「大丈夫かな?」と執拗に体型について確認したり
後ろから写真を撮ってもらい確認しては落ち込んでいました。


鏡を見るたび「太い」「美しくない」「醜い」
気づいたら自分を傷つける言葉をぶつけるようになっていました。

「痩せていなければならない」
そういう気持ちに支配されるようになったのは
毎日弟から浴びせられた容姿に関する批判の言葉の数々を間に受けてからでした。

「大根足」
「もっと痩せろよ」
「もっとこう垢抜けられないの?」
「ちゃんと綺麗にしろよ」
「なんでショートヘア?髪の毛伸ばせ」

などなど
家ですれ違うたびにキモいだブスだの容姿の罵倒を受け続けていました。
(ただ単純に弟の好みと私の容姿、趣味が合わなかっただけなんだけどね)

それから鏡で自分の顔や体を写すことが苦手になりました。
鏡を見ても、過去に指摘された部位が悪目立ちしているように見えるので、
見つめていることが苦痛でしょうがなかったんです。

情けないことに私は弟に言われた真実ではない言葉たちを真実と捉え、
自分の世界の中心に置いてしまいました。
そして「私は美しくない」という色眼鏡を自らかけ
何十年も自分を痛め続けてきました。

思春期なんて家庭や学校といった
とりわけ小さなコミュニティーにしか居場所がないこともあり
その中でかけられた言葉がこの世界の全てなのだと思ってしまったんです。

すれ違った人がクスクス笑っているのがわかると
自分の何がいけなかったんだろう?と不安になったのをよく覚えています。
「顔はいいのに、体型がねえ」
今となっては本当に言われた言葉なのか、私の妄想だったのかもうよくわかりません。


私のチェックはあきらかに普通のチェックではありませんでした。
「大丈夫かどうか?」「醜くないか?」
マイナス点を確認していく病的な作業。
ただひたすらそれだけを確認していました。

鏡を見るのが苦痛だったので大学在学中メイクなんてしたことなく
社会人になってからようやく必要に駆られて化粧をし始める始末でした。
(そういえば劣等感からなのか化粧品会社に入社しました)

こんな状態だったので無理なダイエットもたくさんしてきました。
今みたいに正しい情報が少なかったこともあり
〜〜だけ食べ続けるダイエットが横行していました。
もちろん取り組みましたし、失敗しました。
ネット広告にある怪しいサプリメントも買って試しました。
効果なんてありませんでした。


自分を罰するように食事を摂らなくなりました。
158cmの身長で42kgまで体重が落ちてしまいました。
お尻の贅肉がほとんどなくなってしまったので
学校でずっと座っているのが辛かったのを覚えています。

そして、私の認識をさらに歪める出来事も起こりました。
42kgになった時に変質者やストーカー被害に遭うようになり
同級生など異性から異様にモテ始めました。

家庭内で私の容姿を批判していた弟が男性という性別ということもあり
男性にモテる=許可されているような実感があったのは否めません。

こんな私を好きになってくれるなら、と
告白されればすぐに付き合うような女でした。

それでも
「自分は醜い」そんな前提の状態で生きていたので
いくら彼氏がいようが心休まることはありませんでした。
「どうして私を好きになってくれたのかわからない」
「何が欠けたら捨てられてしまうんだろう」
欠けている部分を補わなければ捨てられるという不安と隣り合わせでした。

自尊心なんてこれっぽっちもなかったです。
だって私は改めなければならない部分が多く
まだそれが改善できてないのだから。


結婚してからは
少しでもマシな自分になるべく自分を客観視できるようにと
骨格・顔タイプ・パーソナルカラー診断を受けることにしました。

その際に衝撃を受けた言葉があります。

「どんな感じになりたいですか?」
そんなもの、私にはないことに気づきました。

ただ、弟から言われる欠点をどうにかすることしか頭になく
なりたい自分像なんてものは何一つありませんでした。

そのせいか出てきた言葉は
「何を選んだらいいかわからないんです」
情けなくて恥ずかしかったです。


私が信じ込んでしまった弟の心無い一言
つい先月に会った時も
「お前、もっとちゃんと見た目意識しろよ」と言われました。
永遠に交わらない価値観のすり合わせほど無駄なものはないので
「え〜そうかな〜?」と返しておきましたが
今では私が私のままでいることを美しいと肯定し続けてくれる夫の存在や
私も私を美しいと思えるようになったので、何を言われても
「何言ってんだこいつ?笑」と思えるようになり
自分の価値観を他者に押し付ける人の言葉にいちいち傷付かなくなりました。


その出来事があったあとからです、鏡を見るのが楽しくなったのは。
きっと自分と他者の間に明確な境界線を引くことができ
他者の意見に左右されることなく、自分の気持ちを肯定できたからだと思います。


そして鏡を見れるようになってから気づいたことがあります。

「いつも奥二重だな〜」なんて思っていましたが
毎日自分の顔を鏡で見れるようになったので
前日の夜に食べたカップ麺の影響で顔が浮腫んで奥二重になっているだけでした。

左右の眉毛の高さ、形の違いに気づきました。

目の下のクマに気づきました。

小鼻の横の毛穴に気づきました。

太いと思っていた二の腕、太もも、お尻はそこまで太いわけではないことに気づきました。

他者の評価をもって自分を判断するのではなく
自分の目で自分の体をしっかりと認識することができるようになりました。

30歳になってようやくです。

今までは鏡を見ることを避けていたせいで
自分に似合う色も似合う形も何もわかりませんでした。
そのせいか昔の写真を見返してみると
洋服もアクセサリーもメイクも何もかも似合っていませんでした。

でも最近は色眼鏡もなく正しく自分を捉えることができるようになり
鏡を見続けることも苦痛ではなくなったので
メイクもアクセサリーも洋服も似合ってると言われることが増えました。

他人の価値判断が基準だったころは
流行もの、男ウケするものや彼氏が喜ぶような見た目ばかりしていたので
容姿が毎年のようにコロコロ変わっていました。

今は自分が「好き」なものと得意なものを掛け合わせて
一番自信がある状態でいられるものを身につけることができるようになりました。


そして、ようやく頭の中で響く心の声が
「〜でなければ」から
「〜したい」になったんです。

私は何が好きなのか
自分の顔、肌質、骨格に合うものはなんなのか
自分は何を磨けばさらに輝けるのか
今はひたすらそれを模索しています。

この記事にもあるように
私は自分の価値基準を他者や世間に置いていたため
あまりにも生きづらい人生を送ってきました。

表立って発信することはありませんでしたが
リストカットも自殺未遂もやめられず
ODや向精神薬の薬害で苦しんだ過去もあります。

顔が整っていたとしても
世界を歪んだ捉え方をする色眼鏡を外せなければ
生きるのはとても苦しいものです。

今回私がこのような記事を書いたのは
「顔がよければ人生うまくいくのに」という
世間の風潮を見て思うことがあったからです。

たしかに恋人には恵まれていましたし
26歳で結婚して、夫の仕事は順調です。

それでも、幸せになるのに「顔」が必ずしも重要なのでしょうか?
そこに一石を投じたかった。

私は幸せになりやすい「顔」を持っていたにも関わらず
歪んだ世界の捉え方をしていたことが原因で全く幸せではありませんでした。
そういう人間もいたよ、ということを知って欲しくて書き始めたのがこの記事です。

そして書いていて思ったのですが
〜〜があればうまくいくのに、という考え方は
往々にして人を幸せにしないものだと私は思います。

孫がいれば
子供がいれば
地位や名誉があれば
ブランド品があれば
美しい内装の家に住めば
素晴らしい配偶者と暮らしていれば

全部嘘っぱちのようにしか私には思えません。

自分の外側のもので自分を埋めようとする限り
幸せには一生近づけないと私は思います。

SNSには私と似たような症状、状況で苦しみ
「自分を変えることは無理だ」と思っていらっしゃる方が多いような気がしました。

私の記事が似たような方々が状況を脱するためのヒントになったり
「自分も変われる可能性があるかもしれない」と
小さな希望が抱く、その一歩になれば嬉しいです。

とかなんとか綺麗事を宣いましたが
この4年間のことを言語化しないと次に進めない気がして戻ってきました。
全部言語化して、世に放ったら次のやるべきことが見えてくる、占い師のそんな勘です。

今は占いより、エッセイで言葉を紡いだほうがいい気がして
今回書かせていただきました。

あなたの人生の時間を使って読んでくれてありがとう。
また次の記事で会えることを楽しみにしています。


いいなと思ったら応援しよう!