西欧が行った虐殺の数々(3)ーイギリス編
・今回は副将のイギリスです。
■イギリスによるインド支配の経緯:
・イギリスの植民地支配は1600年に東インド会社が女王エリザベス一世からアジア貿易の独占に関する勅許状を得たことに始まります。既にご紹介したように、当時はオランダやスペインとは競合状態であり、特に同様の東インド会社を設立していたスペインとはかなり対立していたようです。
・この東インド会社は当初こそ貿易での営利追及の民間企業でしたが、次第に政治的な色彩を帯びていきます。特に18世紀の欧州本国同士の問題(ハプスブルグ家の継承問題とか)がアジアにも飛び火し、各国の東インド会社同士の抗争にも発展し、軍事面での強化が行われていました。
・それまでのインドにはムガール帝国(語源はモンゴルのイスラム国)が全域を事実上支配していて、各地方を支配してた太守(マハラジャ)や小太守(ラジャ)の上に乗っかった形であった。ただ、この形では長続きはせず、ムガール帝国は次第に力を落としていた。そんな時イギリスはムガール帝国の地方での支配力を順番に切り崩していった。
・1757年のプラッシーの戦いはこの流れで起きました。ベンガル地方(カルカッタ付近)を入手したかったイギリスはフランスとの戦いに備えるという名目でカルカッタを要塞化しようとした。これに反対したベンガル太守との間で戦闘となりました。当初は太守側が大軍でリードしたが、マドラスから応援を呼んだり、太守側にイギリスとの内通者を作ったりして逆転させた。(この辺りがイギリスらしい)これ以降ムガール帝国の全権委任的な形で政治権力を発揮、法外な徴税を行ったり、嫡出子のいない太守の土地を没収したりで、東インド会社がインドを植民地化していくようになった。
・1857年にはセポイの反乱と呼ばれるインド人傭兵の反乱が起こった。当時東インド会社は20万人強の傭兵を抱えるまでになるが、その内の9割はインド人傭兵。蜂起傭兵たちはムガール皇帝を擁立し首都デリーを目指して進軍を開始。しかし、反乱は1877年に収束させられ、この時点でムガール帝国は崩壊し、イギリス本国のビクトリア女王を皇帝とするインド帝国となった。
・その後の虐殺で有名なのはアムリツァル大虐殺(1919年)で、インド・アムリツァルで1919年4月13日、武器を持たない男性や女性、子どもたちに向かって英国軍部隊が発砲。当時の記録によると、犠牲者は379人とされているものの、インド側の数字では計1000人近くとされている。
■イギリスのインド支配の惨状の例
「植民地残酷物語」(山口洋一著)には、いろいろな引用がありますが、
・イギリス本国でも作れないような高級生地を作れるインド人の手首をことごとく切り落とした。彼らはほとんどが餓死してしまった。
・ちょっとでも気に入らないインド人は容赦なく射殺。
・1770年ベンガル大飢饉では1000万人の餓死者
・19世紀前半で74回の飢饉で150万人、後半では244回で2850万人の餓死者
これ以外でもネットにたくさん出てきます。
■流刑地にされたオセアニアの悲劇(インドだけではありません)
・1788年にオーストラリアに流刑地にしてならず者を送り込んだのもイギリスだが、30万人はいたアポリジニは原住民狩りで100年後には6万人程度になった。
・タスマニアで原住民狩りを愉しんだのもイギリス人で、当初3万7千人が平和に暮らしていたタスマニア人は全滅してしまった。(1876年に最後の女性が死亡)
■ミャンマー
・ミャンマーでもムチャクチャしたのは有名だが、これくらいでおいておきましょう。
・1点だけ書くと、アウンサンスーチーという人は事実上イギリス人であるようですね。
■アイルランドに置けるジャガイモ飢饉の悲劇(Wikipedia『ジャガイモ飢饉』)
・最後ににイギリス人の悪徳は植民地だけでなく、併合して自国となったのアイルランドでも発揮されている。
・1845年~1849年にかけて欧州全体でジャガイモの疫病が発生し、ジャガイモ飢饉となった。アイルランド島の地主はほとんどが島外のイギリス人だった。彼らはアイルランド人の苦境など全く考慮せず、島から食料をドンドン輸出させ、餓死者をドンドン出すことになった。
・「この飢饉で、アイルランドの人口が少なくとも20%から25%減少し、10%から20%が島外へ移住した。約100万人が餓死および病死し、主にアメリカ合衆国やカナダへの移住を余儀なくされた。また結婚や出産が激減し、最終的にはアイルランド島の総人口が、最盛期の半分にまで落ち込んだ。」
・併合したとはいうものの、気持ちは植民地扱いだったのでしょう。
因みにイギリスの腹黒さは昔話ではない。ウクライナが停戦に走ろうとしたときに、わざわざキーウに飛んできて停戦と止めさせたのは…。