日本はスペクターからの攻撃をどう防ぐのか
・以前から投稿していますが、世界的に価値観の崩壊が進んでいます。その隙が突かれていると言っても良いでしょう。ニーチェが喝破したように「神は死んだ」ということで西欧がカオスになり、日本も「明治の脱亜入欧」と「GHQによるWGIP」によって伝統的価値観が破壊され、その隙に共産主義、新自由主義、個人主義などが入り込んできた。価値観の破壊は、判断基準の破壊であり、何が正しいのか誰も決められず、論争に終止符を打てない。そうなるとヘイト・分断になり、永久に諍いが絶えなくなってしまう。女系天皇をめぐる争いも同じ構造です。
では希望は無くなったのか?いや、保守主義にこそ希望があると考えます。これも以前の投稿に書きましたが、保守主義はそこに答えを用意していました。
・それは「時間」です。言い換えれば「慣習」「伝統」で、それらは歴史の中で修正されることはありますが、長い時間人々が大事にしてきたものはそれを理由に「正しい」と尊重することです。これは理屈ではありません。ロジックだって「A⇒B」はAが正しいとBは正しいと言うだけで、Aが正しいことはどこまで行っても証明されません。ロジックでは証明できないのです。
慣習・伝統は共同体が長年育んできたもので、共同体ごとに歩む歴史が異なるので必然的に共同体によって異なります。そして、そこで大事にされている価値観は相対的なものではなく、共同体の中では絶対的なものになります。いわば、世界には複数の絶対的価値観が共存していると言えます。
・従って国家という共同体のレベルで言えば、ナショナリズムを取り返して、国史に典拠を求めて慣習・伝統などを見直して、これまで国家が培ってきた価値を見直す作業が必要です。これは政治のレベルではなく、国家の思想(=背骨とも言われますが)のレベルです。
余談ですが、昔々の律令制度を学校で習った時、国の組織図(二官八省)では、大きく神祇官と太政官に分けて太政官には多くの政府組織がぶら下がってきたのに、一方の神祇官がポツんと独立して存在したことが不思議でしたが、後に歳を経て、祭祀(=思想)と三権(=広義の政治)を峻別していたことに気付き、昔の人も良く分かってたなあと感銘したことがあります。
・幸いなことに日本では皇室という2000年以上に亘り慣習・伝統を集約してきたトップがいらっしゃいます。世界がうらやむのはここです。皇室は日本と言う共同体のトップとして100%共同体の為に日夜精勤されています。皇室は他国の王家のような国民を支配しているわけではなく、遠い過去から国民の寄り添いいわば「本家」としての存在です。仁徳天皇の逸話は有名です。
・海外から思想を輸入してはいけないということではありません。聖徳太子は仏教を輸入してますが、その際に日本(≒神道)に合うように仏教を曲げて共存させました。少なくとも平安時代以降明治時代までの1千年間は神仏の区別は無かったと思います。大事なことは、やはり慣習・伝統を踏まえた形で輸入しなければならない。そうでなければ定着しないだけでなく、紛争の種になってしまいます。
・日本の資本主義も改変されています。日本型と揶揄されていますが、むしろ「三方良し」の日本型の方が良かったのではないかとも思います。