大事なのはルールの伝達じゃない。僕らはそれを『ヒカルの碁』で学んだ。
主演女優の顔力と眼力が強すぎる。すごい。
映画ドラマに関わらず、作品において「孤児院」という場所での生活が取り上げられる場合、子供間の諍いや先生からの迫害など、負のシチュエーションが描かれることが少なくない。同様に、孤児院から抜け出し「里親」のもとに場所が移ったとしても、やはり同じような不愉快さがその後のカタルシスの源泉になっていたりするパターンも多い。
このドラマを見始めてしばらくはずっと、ドラッグや酒などのキーアイテムの存在も手伝って、「ああ、嫌な展開に入っていくのかな…」という不安が付きまとっていた。
だから、チェスの才能に溢れた女性の、チェスに覚醒していくスペシャリズム礼讃感があまり入ってこず、序盤はずっとモヤモヤしていた。
していたんだけど、「嫌な展開が始まる…始まらない…嫌な展開が始まる…始まらない」が繰り返されたあと、「あれ、これってあんま悪いヤツ出てこないやん!」ってな感じでマインドセットが切り替わり、じゃあ何をどう乗り越えてチェス界の頂点に立つのか、という一点に集中できるようになった。
その能力は、果たしてドラッグの力か素の才能か、というテーマはあった気がするが、うーん、あんまそこに力点を置かなくてもよかったのではないか。
先達やライバルの影響をどう跳ね返し、オリジナリティを持って勝ち続けられるか?とか、スペシャリティのみに焦点を絞った置換も可能だったとも思う。
チェスについては、将棋ブームの派生で小学生のころ少しだけ遊んだことがある。が何ひとつ覚えていない。ので、盤面で起こっている状況展開について具体的なことは一切分からない。しかし、どちらが勝つのか?その過程が、しびれるほど繊細なカメラワークと演技で構成され切っていて、勝負の機微はこのうえなく伝わってくる。
この感覚は、日本人の多くは『ヒカルの碁』で体験済みだと思うが、とある競技をテーマに物語を演出するうえにおいて、大事なのは”ルールの伝達”にあるわけじゃないんですねえ。
Wikipediaによれば、ギャンビットとは、「駒(通常はポーン1個)を先に損する代償に、駒の展開や陣形の優位を求めようとする定跡を言う」とある。
早々に両親を失った代償としてベスが得たもの。
それは、辛い時を共にした友、お互いに切磋琢磨した仲間。
そして勝利。
これは、ベスが編み出した人生の定跡の物語。