息子に戻る日

今日という日は、父の71回目の誕生日だ。


ただその父はもうこの世にはいない。
7ヶ月と19日前から。

早朝にかかってきた突然の知らせを聞いて
朝イチの新幹線に乗り
父と対面をした数時間後、数日後には
お葬式の段取りや遺体の保管、
事故先から家までどうやって運ぶかなど
悲しい気持ちを誤魔化すかのように
次から次へと進行した。


初めての喪主で
初体験の連続だった。

近親者だけでお葬式を終え
火葬をし、喪主の挨拶もして
父を旅立たせたのだが
母が住む実家には遺影と位牌、遺骨が残る。

母の希望で
気持ちの整理がつくまでは
納骨をせずに家で父と一緒に過ごしたいと。


葬式の段取りだけでも大変だが
父の場合は交通事故だったので
その間に加害者側との連絡
警察とのやりとり
そして弁護士選定とやることが多かった。

褒められてもいいのではないかと
一瞬思うくらい今振り返っても
大変だった。

ただ、褒めてほしい父はいない。
いつだって父に
褒めてほしいのが息子というものかもしれない。


父との記憶を振り返っても
正直、父に褒められた記憶がほぼない。

ほぼというかない。

通知表を持っていっても
目を通して突き返される。

大学に受かっても、
部活で入賞しても、
就職先が決まっても、
何一つ褒められたことがない。

父は口数多くなく、
自分もそれに似たのか
話すことは得意ではない。

家での会話も多くはなかった。

自分が大人になり、
結婚をしたくらいから
家族で定期的に食事に行く機会が増え、
また話す量も増えていった。


ある日バッといなくなった父。
「よかったよ。」
「がんばったね。」
その一言をもう二度と聞くチャンスがない。

一番褒めてほしい人がいない
話せないのはしんどい。


しかし
お葬式は近親者だけで行ったのだが
葬式前に父の職場の方々が
父に会いに来てくれた。


父の仕事仲間の方々から
お悔やみの言葉をもらったあと
不意に
『ようやく自慢の息子さんに会えました』
と二言目に言われた。

父は僕には決して
そんな言葉をなぜかかけてくれたことはないが
やれ大学進学した、◯◯に就職した…etc
と35年一緒に働いてきた仕事仲間には
ずっと話をしていたらしい。

直接言えよ。
とも思いましたが
すべて救われた気持ちにもなりました。


実家の遺影と同じ写真を
自宅の書斎にも置いている。
父の遺影がある生活。

遺影の中の父は笑っている。

まさか父の写真を
毎日みる生活など考えたことなかった。

いつも脳内に記憶の中の父が
名前を呼んでくれる。



余談だが
父の名前は「富士雄」
我が息子の名前は「富士」

と名付けた。

由来や込めた意味はいくつかあるが
父から字をもらっている。

事故にあった父に会いに
新幹線に乗り、降りた駅の名前は
「新富士」駅

ただの偶然ではあるが
なんだか孫を、
息子の富士をしっかり
育てるんだぞ
と言われている気にもなった。

そして、今日は
父の71回目の誕生日。

母は四十九日の日ではなく、
父の誕生日のその日に
納骨することを決めた。

事故にあったあの日から何日経ったのだろうと
ふと、気になり計算をしたら
7ヶ月と19日だった。

息子の誕生日は7月19日

これまた偶然だし
ただのこじつけと言われても仕方がないが
その数字の字面を見た時に
息子の富士をしっかり
育てるんだぞ
と父にまた言われている気にもなった。


普段僕は息子を育てる父として
過ごしているが
今日という日は一人の息子として
過ごそうと思います。


なんだか朝パッと目が覚めてしまい
ポエムが書きたくなり
noteにしてみました。

ここまで読んで頂きありがとうございます。
それでは行ってきます。

2023年11月18日
新井正輝


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