「優しい人」の考察
ちーっす、おではボブともーしますですぅ。昨晩、初めて洞窟から出てきたんどすが、人間は頭がええんどすなぁ。おではトロールだからびっくりどすよぉ…。
と、冗談っぽく始めますが、今回は少し真面目な話かも知れません(笑)
今回はタイトルにもある通り「優しい人」について考察します。使い古された道徳的テーマですが、自身の思考をまとめる為にも…。どうか皆さん、少しばかりお付き合い下さい。
まず「優しい」とは何かを定義しましょう。辞書を引用します。本来は辞書なんて欠陥品と呼んでも差し支えないくらい抽象的で、現社会における思考に向いていないのですが、今回はいい指標がないので致し方ないです…。
ふむ、この辞書から私たちが普段使っている「優しい人」の「優しい」を定義すると②の意味になりますね(恐らくですが)。「心が温かい」というのは比喩的な意味でしょうし排斥すると、定義は「思いやりがあって親切だ」という内容になります。
では、更に定義を掘り下げていきましょう。退屈だと思われますが、まだ定義が抽象的過ぎて議論も出来ないので…申し訳ないです。先ず、「思いやり」の定義は…
恐らく、一般的には①の意味で使われているでしょう。
次に「親切」の定義…
これも恐らく1番を使っていますね。ですが「思いやり」の定義と少々被っているところがありますね。トートロジーに陥らない為にも、無駄な部分は排斥させてもらいます。そうすると「優しい」の定義は
「ある人、又は人達の身になって考え、その人の為に何かをすること」
と言った内容になります。今回は「優しさ」の考察ではなく「優しい人」についての考察ですから、人という点も考慮すると、優しい人の定義は「ある人、又はある人達の身になって考え、その人の為に何かをする人」となります。
さて、これを踏まえてここで言わせて頂きます。
優しい人になること自体は簡単です。
だってそうですよね。定義からすると、優しい人になるには誰かの立場になり、そして考え、その人の利益になる事をすればいいだけなのですから。現代社会に生きる僕達は何かしらのモノを持っています。優しい人になりたければまずはその人の立場になり、何が利益になるのか考え、自分の持っているモノ(例えば金や食料など)を優しい人だと思われたい人間に与えればいいのです。そうすれば大抵は利益になるでしょうし、その人の中での貴方は優しい人となりますから。
ここで一つ質問をさせてください。
「優しい人」という称号に捕らわれていないか?
確かに優しい人は好かれます。なにせ、自分に利益を与えてくれる存在に好意を寄せない人間は居ないのですから。ですが、その仕組みから優しくするという行為を形骸化させ、洗脳的に「普遍的に優しくしないといけない」と盲信していませんか?
上の画像はまさにそんな「優しさを盲信している人達」を風刺していると思います。優しさというのは余裕から生まれるものなのです。それなのにも関わらず優しさを盲信することにより、余裕の無いはずの状態で自分の精神や財産を削る。まるで馬鹿です。思考停止と大差ないです。
優しい人ほど損をする。
こんな言葉がありますね。これは掘り下げていけばまさに「優しさを盲信している人ほど損をする」という意味に辿り着く言葉です。
ブラック企業で過労死する人達もこの類いだと思われます。「企業のために働かなければ」「みんなのために働かなければ」と、誰かの為に優しくすることを盲信する。それによりどんどん沼にハマっていく。呼吸をするように優しくしてしまう。自分の肉を差し出してまで。
今ひとつ考えてみてください。貴方のその優しさ、本当に形骸化していませんか?
どうか、優しさに目を合わせてください。その上で貴方が救いたいと思うのならば私は何も言いません。ですが、優しさを盲信しているだけならば、今すぐやめて欲しいです。
貴方の優しさは、貴方自身が一番欲しているのですから。