「水に流す」ってこと、やっとできたよ
正しい子って名づけられただけある
正しさをぶん回して生きてきた
若いころ、わたしはとにかくすべてに白黒をつけたがっていた。曖昧さを許さなかった。それはじぶんに対してもそうだし、他者に関してもそうだった。
にんげんは不完全。わたしも当然不完全。だから、にんげんたちの世界には白でも黒でもない間(あわい)の色がたくさんある。
わかっちゃいるけどどうしても、ゆるせない時があった。
とくに、わたしの考える正義に大きく反していると感じるときには。
まぁいいじゃんとか
そんなもんだよとか
その種の言葉で片付けるのをずるいと思ったりもしていた。
そんなの、逃げだ、と。
そんな考えをぎゅっと両手に握りしめていた。正義の顔つきで。
たしか、そんなかんじ。
曖昧に「たしか」なんて言い出してるのは記憶力の低下のせい。どうした、わたしのじまんの海馬。時は確実にわたしを捕らえ、脳の性質を変えているのだった。
性質というか、機能、と言ってもいいかな。
記憶力の低下自体は、そんなに喜ばしいことでもない。でも、世界の捉え方や他者との関係性においては、なかなかよき役割を果たし始めている。
それがわたしの最近の発見であります。
おとなになってから数人、
とても親しかったのにその後疎遠になってしまったひとがいる
その事実をこう改めて文字にしてみるだけで、とっても残念なこと。
たった数人であったとしても。
数じゃない。もっとやりようがあったのでは。
重なる部分や共感しあえる点があったり、単に気が合ったりして、わたしたちは距離が近づいたのだろう。でも、お互いのエゴがぶつかってパンと弾けたようなかたちだった。その分岐点で、わたしの「白黒つけてしまわないと気が済まない」気質が働いていたことは否めない。もっとうまいやり方があったんじゃないか。時折、そんなふうに思い返すことがあった。
先日、ふとLINEが届いた
そんなひとのひとりからだった
「お誕生日おめでとう」
控えめな絵文字とともに言葉があった。誕生日を覚えていてくれたなんて、数字に強いそのひとらしい。最新のメッセージをすこし上にスクロールしてみると、過去の最後の残念なやりとりが浮かんだ。お互い真剣をぶんぶん振り回しているような文字群。おそるおそる少しだけ読み返すと、あああと声がもれた。おいおい、と言いたくなる。冷静さをあまりに、欠いていた。
あの時は、お互い正しいと思ってることをただ言った。ぜんぶ遠慮せず言った。まっすぐすぎる人間、じぶんが正しいと信じている人間同士の見本みたいだった。徹底的に意見が合わなかった。視点が、哲学が、ずれていた。
そして、合わないからしかたないね、って流せなかった。
お互いにとって大切で譲れないトピックだったのだ。
まあ、少なくとも、そのときは。
もういい!みたいなかんじで終わってしまったことは、当時40代の人間同士としてはずいぶん幼かったと言わざるをえない。
そして時は経ち、時間はわたしの記憶をじゃぶじゃぶ洗い流し、届いたこのLINE。これはお知らせだと思った。
何のお知らせって、あなた、変わるタイミングなのでは?という知らせ。
生まれた日だしね。
そもそもである
わたしはいったい何をそんなに許せなく思っていたんだっけ?
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