【脚下照顧】
禅宗のお寺に行くと玄関や洗面所に「脚下照顧」「照顧脚下」あるいは「看脚下」と書かれた紙や札が貼られているのを目にすることがあります。
「足元を見なさい」、つまり「履物を揃えなさい」ということでしょうね。脱いだ履物を揃えられないのは心が乱れている証拠。履物をそろえて脱ぐというちょっとした気遣いだけで、気持ちも落ち着くというものです。
お寺はもちろん、旅館などで履物がきちんと揃えて置いてあるのを見るととても気持ちが良いですね。お客様を気持ち良くお迎えするという気持ちが感じられます。
しかしどうでしょう。自分の身の周りを見てみると...
公共施設のトイレや、もしかしたらご自宅の玄関など、履物が脱ぎ散らかしてあるのを目にすることはありませんか?
「入船」、つまり、履物のつま先が家の中に向いている、の形でも揃えてあるのはまだマシな方で、脱いだそのまま、靴やスリッパが今にも歩き出しそうに前後になっていたり、あるいは裏返ったり、重なったりしているのを見ると私などは心穏やかではいられません。団体旅行で皆が集まっている部屋の入り口など酷いものです。ぞっとします。
それを直しても直しても少し時間が経てばまた元通り。きちんとそろえてあるものを何故元に戻せないのでしょう。一体、どういう神経をしているのだろう、と腹を立てながらも、無駄だと分かっていても、すべての履物がつま先を外に向けて置く「出船」の形で揃っていないと気が済まない質の私は直さずにいられません。
しかし、この「脚下照顧」という言葉は、単に「履物を揃えなさい」というだけの意味なのでしょうか。そうではないでしょう。もっと深い意味があるはずです。
その真の意味は私には分かりません。しかし、今のところは、「過去を振り返り、将来を見、今、自分がどこにいるのかを観て、今、何をすべきかを考えよ」といった意味ではないかと思っています。
過ぎたことはもうどうすることもできない。しかし、それを反省し、どう捉えて次の行動にどう活かしてゆくのかを決めるのは自分自身。そのために今、自分はどこにいて、何をすべきなのか。
そういうことを考えなさい、という教えなのだと捉えています。
今日も脱ぎ散らかされた履物を揃えながら、この言葉の意味を考えています。