かげぼうし
ランドセルを玄関で下ろし、少女は飼っている芝犬を散歩に連れて行こうとした。
学校から帰るのが少し遅くなった。空はもう薄暗く夕焼けのかけらが山端を縁取っていた。
芝犬はしっぽを振って待っている。
「ちょっと待ってね」
少女は犬にひもを取り付け、空を見上げた。
あまり遠くまでは行けないな。
死んだおばあちゃんが言っていた。
ー黄昏どきの影に気をつけなあかん
小さい頃だからあまり覚えてはいない。黄昏どきとはいつのことなのか少女はわからなかった。
少女は小走りで芝犬に引っ張られていつもの道を進み出した。雑草が両脇に生える田んぼ道に血のような彼岸花が連なって咲いている。
赤い彼岸花は薄暗い空気の中でも何か役目を与えられたように凛と上を向いていた。
少女はあまり見ないように自分の足もとに視線を落とす。息を切らせてゆっくり走りながら、妙なことに気がついた。自分の前にうす黒い影ができている。影は光がないとできないはずだった。もう陽は落ちている。走る少女の前に少女をかたどったような影が地面に揺れている。思わず立ち止まると影も止まった。ゆらりと影が揺れた気がした。
えっ、と声が出てその拍子に芝犬のひもが手から離れ、犬は先に駆けて行ってしまった。
「待って!」
少女の声は震えてかすれた。
立ち尽くす少女の前の影は明らかに別の生き物のように動き、だんだんと大きくなり始めた。
少女は走り出した。影はすぐに追いつき、少女の前に立ちはだかる。反対方向にまた少女は走り出す。おばあちゃんの言っていた影はこれなのかもしれない。
影はまたすぐに追いつき、少女の前を塞いだ。影はいよいよ大きくなり、じりじりと少女に覆い被さろうとしている。
怖い。
おばあちゃん、どうしたらいい?
おばあちゃん!
芝犬が前から走ってくるのが少女の目に入った。犬はけたたましく吠えながら影に噛み付いた。
少女は尻もちをつき、ぎゅっと固く目を閉じた。犬の鳴き声が消えた。少女のほっぺたを犬が舐めはじめ、少女は目をあけた。影はもうどこにもなく、闇がすぐそこまで迫っていた。
湿った土でお尻が濡れた。心臓はまだうるさい。少女はしっぽを振る芝犬を抱きしめてから立ち上がった。
ありがとう。
誰に言うでもなく少女はつぶやいた。犬をつなぐひもを握り歩き始めた。彼岸花は薄い闇の中で黒々と静かに佇んでいる。
そういえばお彼岸だった。
家の灯りが見え、少女はいちもくさんに走り出した。
写真 田中秀紀