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母の手(短編小説)
実家に到着し、玄関のドアを開けるとピアノの音が聞こえてきた。靴を脱ぎながら耳を澄ませる。どうやら母がショパンのワルツを弾いているらしかった。音を立てないようにピアノのある洋室に向かい、ドアの前で曲が終わるのを待つ。最後の音が消えてから、わたしはドアをゆっくり開ける。
「ただいま」
母は顔を上げ、わたしを見る。
「あぁ、お帰り。来てたの」
「すごいね、まだ弾けるんだ」
「そうなの、自分でもびっくりするけど」
母は嬉しそうな表情でもう一度、鍵盤に手を落とす。わたしはピアノの側にある二人掛けのソファに座って横から母の手を見る。母はもう一度、弾き始めた。楽譜は広げてあるが見ていない。手が覚えているのだと思うと、何ともいえない気持ちになった。父が早くに亡くなってから、母は自宅でのピアノ教室を辞め、看護師になった。母は働いている間、ほとんどピアノに触れていなかったはずだった。わたしが子供を産んでからもときどき実家に帰ったりしたが、ピアノを弾く母を見たことは一度もなかった。
しっとりと始まったワルツは徐々に動きを増し、まるで少しずつ集まった水が大きな流れを作っていくように展開していく。母の表情は真剣そのものだった。弾き終わると母はちょっとの間、鍵盤を見つめた。
「ブラボー」
わたしは手を叩く。母は嬉しそうにこちらを向いた。
「もう何十年も前に弾いた曲なのにね。不思議」
「ほんとにね」
わたしもピアノは習っていたが、結局、中学校で辞めてしまった。ショパンまでは辿りつけなかったのだ。ふいに母は遠い目になり、それからわたしを見た。
「そういえば、わたしの口座から百万円なくなってるんだけど、知らない?」
さっきまでの母はもういなかった。わたしはいつものセリフを返す。
「それはお母さんがおろしたの。ガスコンロ、危ないからIHにしたんでしょ?」
母は首を傾げ、険しい表情になった。
「いやぁ、そんなはずはないよ。誰かが盗ったんじゃないかしら」
わたしはそんな母の横顔をただ見つめながら、もしかするとピアノをずっと弾いていたかもしれない母を思い、もしもそうしていたならこんなに早く痴呆の兆しを見せることはなかったのではないかと思ってみた。
「わたしも、ショパン練習してみようかなぁ」
思ってもいないのに、声に出していた。
「大丈夫、まだ若いんだから」
さすがにもう若くないよ、と笑おうとしたがうまく笑えなかった。母の中でわたしは今、何歳なのだろうか。ショパンは小さい手の人でも弾きやすいのだと言っていた母の手は、わたしが記憶しているよりも小さく、乾いて見えた。
◯写真はみんなのフォトギャラリーからお借りしました
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