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過去生の物語(6)

舞台は日本。大好きなおじいちゃんをずっと待つ物語。

私にはきょうだいがたくさんいる。私が一番上で、下に弟がふたり、一番下に生まれたばかりの妹がいる。
家は大きな山のふもとにあって、まわりにも私たちの家と似たような家がいくつかある。
どこの家もあまり裕福ではなくて、近くの畑で育てたものを売ったりして生計を立てている。
家どうしは特別仲がいいわけではなくて、どこかいつもよそよそしく距離があるように思える。
子供達は一緒に遊ぶことも多いけれど、私は年長なほうなのでいつもひとりでいることが多い。
ひとりでいるのは寂しくない。むしろいつも子守をしているので、ひとりになる時間はとても心地いいものに感じる。
森の中を歩いたり、河原にいると、心がしんと静かになって、ようやく自分が生きているんだと実感できるような気がする。

おじいさんに会ったのは、私がいつものようにひとりで山を歩いているときだった。あまり人に出会う場所じゃなかったので、私は人の気配にびっくりしてかたまってしまった。するとおじいさんがニコニコ笑って、どうした、迷ったか?と聞いた。
迷ったんじゃない、というと、おじいさんはそうかと言って背中を向け歩いていった。私はそのときなぜか、おじいさんのあとをついていった。
おじいさんは私があとからついてくることに気づいたはずなのに、あまり後ろを振り返らず、どんどん歩いていく。
だいぶ歩いたところに小さな家があった。おじいさんひとりが寝転がったらもう空いている場所がないくらい小さい家だ。
おじいさんはそこで一人で暮らしているようだった。おじいさんは小刀で竹を割き、魚を取るときに使うびくを作り始めた。
やってみるか?というので、私もちょっとやらせてもらった。家ではできない、初めての経験だった。
その日から私はおじいさんを訪ねるようになった。おじいさんは器用でいろいろなものを作る。それを見ているのも楽しかったし、おじいさんと話をするのも楽しかった。
たくさんのことを教わったし、自分の話もした。
おじいさんは、私のことを賢い子だとほめてくれた。父にも母にも、そうして褒められることがなかったので、とてもうれしかった。

ある日私はいつものようにおじいさんを訪ねた。
おじいさんは留守だった。魚釣りに行ったのか、作ったものを売りに出かけたのか、その日おじいさんは帰ってこなかった。
次の日も、また次の日も、私はおじいさんの家にいった。でも、おじいさんはいない。
父や母や村の人におじいさんのことを聞いてみても、そもそもみんなおじいさんが住んでいたことすら知らなかった。
私はおじいさんを待つしかなかった。
時々よくない想像もした。おじいさんはどこかでケガをして家に戻れないのではないか。どこかで命を落としたのではないか。
不安はふくらみ、悲しみが押し寄せる。でも、ここで泣いたりするのは、そのよくない想像が現実と認めてしまう気がしてぐっとこらえた。
泣いてはいけない。泣いては予感が現実になる。
おじいさんが言ったことをひとつひとつ思いだす。教えてくれたことを思いだす。
いつかおじいさんに再会するときのために、私はおじいさんの記憶を強くしたいと思う。
おじいさんのことを、絶対に、ひとつも忘れないために。

***END***

この物語のテーマは“リリース”つまり開放することです。
泣くこと=悲しい想像の現実化、という呪縛が彼女を苦しめます。
でも、大好きな人に会えなくて悲しかったら泣いてもいいし、泣くことで悲しい現実を引き寄せることにはなりません。
もっと自分の感情を開放し、気楽でいても、悲しいことは起こりません。

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