口紅引いて、あんみつ食べて─舞鶴引揚記念館
知覧特攻平和会館をこの夏訪ねた友人に会い、話を聞いた。陸軍特別攻撃隊員(特攻隊員)たちの出撃の地だった知覧。会館には隊員たちの遺品や資料が展示されている。
舞鶴引揚記念館のことを思い出した。
2015年、講演で舞鶴を訪ねた折に案内され、その日、東京に帰る新幹線の中で「母なる港 舞鶴」というパンフを広げ、ツイッターに連投した。何も知らなかった衝撃と、引揚館で知ったこと感じたことを書き留めずにはいられなかった。
口紅とあんみつ
ツイートを日記にまとめたものを後日公開した。それから8年経ったこの夏、読み返して印象に残ったのは「口紅」と「あんみつ」だった。
「口紅」は、引揚記念館の展示で知った引揚船での出来事に登場する。
「あんみつ」は、引揚記念館を訪ねた後、舞鶴在住の田丸のおじさま(当時83歳)と再会した喫茶店で食べたクリームあんみつ。お店のメニューではなく、「あんたこれ好きやろ」と持ち込んでくれた。田丸さんをわたしにつないでくださったのが店主の米澤典子さんなので、特別に持ち込みさせてもらえたのかもしれない。
このとき田丸さんが寄稿した舞鶴の戦争体験集を読ませていただき、直接お話を聞いた。
口紅を引ける自由。
あんみつを食べられる自由。
好きな格好をして、好きなところに行って、会いたい人に会って、やりたいことができる自由。
口紅を見ても、あんみつを見ても、田丸のおじさまや舞鶴のことを思い出さなくなっていた。たった8年でも記憶は薄れる、追いやられる。
「掘り出し物の本の題名」と岩波文庫
終戦当時13歳で国鉄に就職した田丸のおじさまは、「戦争で勉強できなかったことが何より悔しかった」と語った。持ち込んだクリームあんみつを食べながら。
日記を読み返して、今年訪れた東大の学祭「五月祭」で見た「戦没東大生の遺稿展〜学徒出陣八十年」の展示を思い出した。
その展示のことを知ったのは、チラシを受け取ったからだった。
「並行企画」とうたっているので、五月祭の正式なプログラムではなく、時期を合わせて開催したということなのかもしれない。
チュロスやクレープの出店でにぎわうキャンパスと学徒出陣があまりにもかけ離れていて、つながらなくて、だからこそ足を運ぶべきという気持ちになり、教育学部校舎の3階まで階段を上った。
映画『きけ わだつみのこえ』が上映されている小さな部屋の片隅に展示コーナーがあり、いろんな版の『きけ わだつみのこえ』が置かれていた。1959年10月1日刊行のカッパブックスを手に取り、開いた。
文字は小さく、上映用に灯りを落とした室内では殊更読み辛かったが、思わず書き留めたくだりがあった。
「いやしくも」から始まる文章の格調高さから、本をたくさん読んできた人だと推察できる。「掘り出し物の本の題名」は、題名を思い出せないという文脈だっただろうか。それとも具体的な題名を挙げていたのだろうか。記憶があやふやだが、「掘り出し物の本の題名」という言葉をわたしが持ち帰りたくなったのは、学ぶことに貪欲だった学生の姿が思い浮かび、掘り出し物好き、本好きとしての親近感を抱いたからだと思う。
書き留めた「中村徳郎」という名前を検索してみると、弟の中村克郎さんは「きけわだつみのこえ」の編集に携わり、日本戦没学生記念会(通称「わだつみ会」)の理事長を長年務められた方だったと知った。
中村徳郎さんはやはり読書家で、最後に克郎さんに会って手記を託したとき、「岩波文庫だけは全部買っておいてくれ」と伝えたそうだ。
2008年には甲州市に中村克郎さんの医院を改装した「わだつみ平和文庫」が開設されていた。15年に建物ごと市に寄贈され、19年、47点の資料が市の文化財に指定されている。現在はと調べてみると、2022年11月1日に入館制限をしつつ一般開放されていた。公開は限定的のようだが、中村徳郎さんの手記と中村克郎さんの想いが引き継がれている。甲州市の子どもたちが学ぶ副読本にもなっている。
五月祭でたまたま手に取った『きけ わだつみのこえ』を開いたときも舞鶴引揚館のことは記憶の上方に浮かび上がり、noteを書きたいと思ったのだが、そこで止まっていた。知覧の話を聞いて、ようやくこのnoteを書いた。8年前の日記を転載した前後に少し書き足しただけだが、これだけのことをするのに何か月も放っておいてしまっていた。
それだけ日々のことに追われ、後回しになっていた。口紅やあんみつを優先させていたともいえる。
たまたま戦争が終わった後に生まれ、今のところ戦争をしていない国で暮らしているけれど、好きなときに好きなだけ口紅を引いて、あんみつを食べて、岩波文庫だって読める自由は当たり前ではないし、いつまた当たり前でなくなるかわからない。
終戦から78年。記憶に轍を刻み直したい。
2015年2月23日(月)の日記
何も知らなかった…舞鶴引揚記念館の衝撃
日星高校への講演を終え、一夜明けた土曜日、前夜牡蠣シャワーを降らせてくれた竹内万里子教頭先生と去年の講演とワークショップのときの窓口だった佐藤絵理先生に舞鶴を案内していただいた。
3度目の舞鶴にして初めての訪問となる舞鶴引揚記念館は、リニューアル工事中のため赤れんがパークで展示中。展示物はかなり絞られていると思われるが、ボランティアガイドの方にじっくりお話をうかがいながら、2時間かけて見せていただいた。
「マイナス20度で、バナナで釘が打てます。それよりも寒いなかで労働を強いられたんです」
肉声の説明からはパネルの説明を読むだけでは伝わらない熱(熱さだけでなく冷たさも)が伝わってくる。怒りも、やるせなさも、語り継がねばならないという使命感も、声にのせられて、こちらにずしんと響く。
戦後13年間に66万4531人の引揚者と1万6269柱の遺骨を受け入れた舞鶴。日本全国での引揚者は600万人を超え、大陸からソ連に送られシベリアなどで抑留を強いられた日本人が約47万2千人いたという。
これは「把握できた数字」であって、実際には、さらに多かったかもしれない。
日本の歴史始まって以来の民族大移動と呼べるような出来事。捕虜といいつつ奴隷のように扱われた抑留生活。これらのことをわたしは歴史の授業で習ったのに記憶から抜け落ちているのだろうか。それとも習っていないのだろうか。初めて見聞きするような事実の連続で、知らなさすぎた歴史に愕然となった。
抑留兵が日本の家族にあてた手紙の改行が不自然だなと思ったら、原文は「監視するソ連側が検閲できるように」とカタカナで書かれていた。検閲されるから愚痴も弱音もこぼせない。「すぐに返事をください」と綴られてはいるが、「日本に着くのに一年半かかったそうです」とガイドさん。返事が来るまでの毎日がどれほど長かったことか。果たしてこのハガキの送り主は返事を受け取れたのだろうか。そして祖国の土を踏めたのだろうか。
何十万という数字の一人一人にもう一度会いたい家族がいて、日本に帰ってかなえたい夢があった。「もう一度」が「もう二度と」になってしまった人がどれだけいただろう。苦役の後に日本に帰れた人たちも、人生の貴重な何年かを奪われてしまった。ミサイルや銃を放ち合うだけが戦争の恐ろしさ愚かさではない。一人一人の時間や愛するものを奪い、才能を埋もれさせ、尊厳を踏みにじる、それもまた戦争の残酷さなのだと重いため息をついた。
「舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」は「東寺百合文書」と並んで2015年のユネスコの世界記憶遺産候補として日本から推薦されている。世界記憶遺産にはベートーベンの「交響曲第9番」の自筆楽譜や「アンネの日記」などがあり、日本からは「山本作兵衛炭鉱記録画」、「御堂関白記」、「慶長遣欧使節関係資料」がある。舞鶴への引き揚げ記録が世界記録として刻まれることで、引揚の歴史全体にも光が当たることに期待したい。
シベリア抑留の壮絶さと並んで、引揚の過酷さにも胸を衝かれた。やっと祖国へ帰れると思っても、引揚船に乗り込む前に、引揚船が日本に着く前に、命を落とした人が少なからずいた。
船の中で息絶えた幼い少女に、乗り合わせた女性が持っていた口紅を塗ってあげた話が印象に残った。少女はおしゃれも恋も覚える前に短い命を閉じた。口紅を差し出した女性は、その後、おしゃれを楽しめただろうか。平和というのは、口紅を引いて、食事や買い物やデートに出かける自由があることで、それを奪うのも戦争なのだ。
何度も足を止め、目を留め、息をのむ瞬間があり、そのなかで思わず書き留めたのが「引揚者を迎えるに際して」と題した市民向けの回覧文だった。
《敗戦後厳寒のシベリヤで四星霜「倒れちゃならない祖国の土に辿りつくまでその日まで」と悲痛な想を胸に祖国を案じ懐しの父母妻子兄弟を想って凡ゆる苦難に堪へて帰って来られる同胞を心から温かく迎へませう》
と始まるその文書は、「四星霜」とあるように、引揚が始まって四年が経とうとしている昭和24年6月23日付で当時の舞鶴市長・柳田秀一氏が発信したもの。
市も財政は苦しいができる限りのことをしたいとし、同胞を温かく迎える事はお茶の接待や打上花火ではなく、心が伝わらなくてはならない、と文書は続く。そして、引揚者を見かけたら《海上であつても道路上であつても或は田畑で耕作をして居られる時でも手を振りハンカチを振り帽子を振って頂く事が一番同胞を喜ばせることであります》と説く。
《殊に引揚は第一船のみで終るものではありませんから第一船は華々しく迎へたが後になるほど寂しくなる様では意義がありません》とあるのは、昭和20年10月の第一船入港時の熱が冷め、市民に「迎え疲れ」が出た頃だったのかもしれない。
この回覧が出された翌年の昭和25年、舞鶴は全国で唯一の引揚港となった。それから昭和33年9月7日の最終船まで足掛け13年、手を振りハンカチを振り帽子を振り続けた人が舞鶴にはいた。祖国への想いを募らせた人たちにとって、どれだけ心強いお帰りなさいだったことか。
一昨年から3年続けて舞鶴を訪ね、そのたびに「よく来てくれました」と温かく心地よく迎えられ、また舞鶴に来たいと思いながら東京に戻っている。今日引揚記念館を見て、舞鶴の人たちには外の人を迎え入れることに、良い意味で抵抗がなく自然にふるまえるのかもしれないと思った。
竹内教頭先生と佐藤先生に自衛隊の護衛艦まで案内していただき(三艘分の距離を往復する間にじりじりと日焼けしそうな距離があった)、その後、再び赤レンガ倉庫に戻ってJAZZというお店で肉じゃが丼をいただいた。舞鶴は肉じゃが発祥の地でもあるらしい。
お二人と別れ、舞鶴に来るたびに訪ねている喫茶ゆめさらに着くと、店主米澤典子さんのお友達で前回舞鶴を案内してくださった田丸のおじさま83歳がお待ちかね。「あんたこれ好きやろ」とおみやげにクリームあんみつを持ち込んでくださっていた。
引き揚げ記念館のことを話すと、「市長やった柳田さんは、もともと開業医やったんや」と教えてくださった。田丸さんのお父様も診てもらったことがあるとか。お医者様ゆえだろうか、あれだけ血が通った公文書はなかなかお目にかかれない。「社会党の国会対策委員長を務めはった名士やで」とのこと。
田丸さんも寄稿した舞鶴の戦争体験集を読ませていただいた。終戦当時13歳で国鉄に就職した田丸さんは、戦争で勉強できなかったことが何より悔しく、国鉄の昇進試験に手を焼いたという。思う存分勉強ができて、会いたい人に会えて、あんみつも食べられる平和をかみしめた。
帰りの新幹線では舞鶴引揚記念館の図録「母なる港 舞鶴」を広げた。戦争が奪ったたくさんの人々の取り返しのつかないものに想いを馳せて、東京に戻った。
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2024.2.17 宮村麻未さん