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5月のある日、赤い薔薇が咲き乱れる薔薇園に行った。

赤い薔薇ばかり見て、赤い薔薇の香りばかり嗅いでいたら、無性に他の色の薔薇を見たくなった。ピザをお腹いっぱい食べたらラザニアやニョッキが食べたくなってしまうように。

明くる日、古河庭園に行った。数十年前に一度訪ねたきりだ。

望み通り、色とりどりの薔薇が咲いていた。

薔薇の色がふえた庭は、人もふえていた。

薔薇と人でにぎわう区画を離れ、階段を下りると、人がどんどん減った。どこかに続く小道がのびている。ベンチで語らうカップルらしきふたりを見かけた後は、誰もいなくなった。

歩いても歩いても誰にも会わない。

大木が日陰を作り、辺りはひんやりしている。

なだらかな坂を上って行くと、木立の向こうが明るくなった。

人の姿は見えないが、話し声がする。

よく聞き取れない。日本語ではないように聞こえる。

坂を上りきった先は果たして日本なのだろうか。

まさか、この道が異国に通じていたりしないだろうか。

上り坂の先に、灰色の煉瓦を積み上げた蔵のような建物が現れた。

中はどうなっているのだろうか。

扉が開くことはあるのだろうか。

扉はかたく閉ざされ、壁は分厚く、音を外に漏らさなさそうだ。中に閉じ込められてしまったら、なかなか発見されないだろう。

とらえられてはならない。

足を速めて、建物に沿って小道を歩く。物陰から誰かが飛び出してきたらどうしようと身構えるが、何も出て来ない。

誰かと出くわすのも怖いが、誰にも会わないのも心細い。人の気配さえしない。さっきまで聞こえていた話し声がいつの間にか止み、しんとしている。

蔵みたいな建物を通り過ぎ、角を曲がる。そこにも誰もいない。

ずいぶん歩いている。思ったより小道の距離がある。

こんなに広い庭園だっただろうか。

案内図に描かれた道から、はみ出してしまっていたりしないだろうか。

そろそろ元の場所に戻って良さそうなのだが。

子どもの頃、美内すずえ先生の「妖鬼妃伝」という漫画を読んだ。デパートの地下が異世界とつながっている話だった。地下街を一人で歩くのが怖くなった。電灯の暗い通路の先に異世界が口を開けているようで。

家の畳の部屋にあった三面鏡を覗き込み、鏡の向こうに吸い込まれた自分を想像し、戻れなかったらどうしようと怯えるような子どもだった。

小学6年生のとき、授業中にせっせと書いたのは、冴えない女の子が鏡の向こうの国で人気者になる話だった。何もかもが珍しい時期を過ぎると、今度は家に帰りたくなる。ホームシックが募る。けれど、鏡の国の住人は女の子を帰してくれない。

あの原稿は今もあるだろうか。実家の段ボールの中にある大量の大学ノートのどこかに。

ここではない世界への憧れと、元の世界に戻れないことへの慄きは、表になったり裏になったりする。のぞいてみたい。でも、引き返す道は残されていてほしい。

この道は薔薇が咲く庭に通じているのだろうか。

古河庭園でなくてもいい。東京でなくてもいい。せめて日本につながっていてほしいと願う。そしたらパスポートがなくても帰れるから。

現金はあまり持ち合わせがないけれどpaypayならある。

paypayで乗れるのか、新幹線⁉︎

この先に2024年、令和6年の世界はあるのだろうか。

年月だけ、日付だけ合っていてもダメだ。誤差があってはならない。時制が合っていてほしい。今に戻りたい。

人の声がする。

一人じゃない。まとまった人数のざわめき。

視界がひらけた。見覚えのある芝生だ。

芝生の向こうに薔薇の咲く庭が見える。薔薇を取り巻く人が見える。

良かった。元の世界に戻れた。

たぶん。

時間も合っていることを願う。

入園受付の事務室の時計とスマホの時刻を見比べる。大丈夫。合ってる。

時計の隣に貼られたカレンダーが目に留まる。

5月。合ってる。

念のため年号を確かめる。

平成……え!?

……という「元の世界に戻れないかもしれないごっこ」をした日からひと月余り。

Twitterで「#主人公が異世界に迷い込んでしまう物語」というタグを見つけた。

恒川光太郎さん、好き。

異世界で思い浮かんだのはNHK青春アドベンチャーで脚色を担当した「アクアリウムの夜」(作・稲生平太郎)。先日聴き直したら、続きがどうなるか知っているはずなのに怖かった。すでに再放送されているけど、また放送してほしい。

赤井薔薇ばかりの薔薇園に行った日のnoteはこちら。



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目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。