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もしもし紙芝居師さん聞こえますか?
わたし五十円玉です。あの日の五十円玉です。

あの日、紙芝居を終えて、かぼちゃ色のバケツから小銭を拾い上げたあなたは、がっかりしていました。なんだ、これっぽっちかと。いつもはひらひらした紙のお金も混じってるのに、今日に限って小銭ばっかり。

なんで、そんなことを知っているのかって?

あの小銭の中に、わたし、いたんです。

かき集めた小銭をぎゅっと握りしめた、あなたの心も、ぎゅっと縮こまっていました。

どういうわけか、わたし、人の手に触れられると、その人の考えていることが伝わってくるんです。電気が通るみたいに。電話が通じるみたいに。心の声が聞こえるって言ったほうが、わかりやすいかもしれません。

生まれたてのピカピカだった頃は、聞こえなかったんですけどね。人の手から人の手へ渡るうちに、回路みたいなものが開いたのかもしれません。

あの日はパン祭りでした。有名なお店の高級パンが飛ぶように売れていました。

パンひとつに五百円玉や千円札を喜んで差し出す人たちが集まっていたお祭りで、あなたの紙芝居に寄せられたのは、百円玉と五十円玉と十円玉。全部足しあげても三百十円。そのお祭りでいちばん安いパンが四百円でした。

これじゃあパンひとつ買えない。電車代にもならない。

あなたの手を通して、やるせなさが伝わってきました。

わたし、もう申し訳なくて。五十円玉じゃなくて、もっと大物だったらと歯噛みしました。だからといって、五百円玉には化けられません。ひらひらしたお金にもなれません。あなたの手の中で小さくなるばかりでした。

せめて、わたしの仲間があと何人かいてくれたら。五十円玉が八枚集まれば四百円。お祭りのパンが買えます。

かぼちゃ色のバケツにお金を入れてくれた人たちに、あなたは感謝していました。その中に何人か、もう少し弾んでくれる人がいたら。あるいは、立ち去った人たちの何人かが財布を開いてくれていたら。

そう願うことさえ贅沢ではないかと申し訳ないような情けないような気持ちになり、あなたは小銭を握りしめたまま、ますますうつむいてしまうのでした。

多ければいいってもんじゃない。五十円玉だって十円玉だってありがたいのです。紙芝居を楽しんで、財布を開いてくれた、その気持ちがうれしいのです。

そのことを、あなたは人一倍わかっています。
あの日だって、わかっていたんです。

ただ、悲しい金額だったんです。

あんなに楽しんでくれたのに、これっぽっち。

なんだか自分が値切られた気がして。

お客さんと一緒に手を叩いて、歌って、笑った時間までも、しゅんとしぼんでしまう気がして。

ほんとはつまらなかったのかな。

何日も前から準備した紙芝居はパン一つの値打ちもなかったのかな。

紙芝居でおなかは膨れないけれど心は満たせる、なんて独りよがりなのかな。

小銭を握りしめたあなたの手から、まとまらない気持ちが押し寄せてきました。

自分がちっぽけに思えて、何もかもが空しくなる。さみしくて、やるせなくて、消えたくなるような、それでいて叫びたくなるような、言葉にならないモヤモヤ。鉛筆で書き殴ったみたいなグシャグシャ。

わかります。わたし五十円玉ですから。

十円玉と五円玉と一円玉よりは大きいけれど、はっきり言って雑魚ザコです。道端に落ちていても、誰にも拾ってもらえないことだってあります。

五十円で買えるものって、あまりないですから。
今じゃハガキ一枚送れませんから。

五十円玉と五百円玉が並んでいて、どっちが好きって聞かれたら、誰だって五百円玉って答えます。五百円玉ひとつあれば五十円玉十枚分の買い物ができますから。

五十円玉のほうが好きって言うのは、よっぽどの物好きです。真ん中に穴が空いていてドーナツに似ているのがいいとか、紐を通して首から下げられるのがいいとか。

五百円玉にはかないません。
百円玉にだって、かないません。
五十円玉なんて、あってもなくてもいい、中途半端な存在なんです。

五十円玉がなくなったって誰も困らないんじゃないかって、投げやりな気持ちになることもあります。十円玉五枚あれば、事足りますし。

そんなことをうそぶくのは、そんなことないよって誰かに慰めて欲しいだけかもしれません。五十という数は二でも五でも十でも二十五でも割り切れるのに、性格は割り切れないヤツです。

それでいて、意地っていうんですかね。カッコつけるならプライドですかね。五十円玉でしか買えないものもある、なんて思うんですよ。五十円玉でなきゃ務まらない役目があるって。思いたいんです。きっと、あるはずなんです。あって欲しいんです。

それって何なのって聞かれたら困るんですけど。

いえ、困っていたんです。過去形です。あの日、あのパン祭りの日。わたし、五十円玉に生まれてきて良かったって初めて思えたんです。

その話をしたくて、今、あなたに呼びかけています。

もしもし紙芝居師さん、聞いてください。あの日、かぼちゃ色のバケツにわたしを投げ入れた人が、どんな気持ちをわたしに託したか。

もちろん、本人には託したつもりはないんです。わたしが一方的に受け取ってしまったんです。

その人は、あなたの紙芝居に足を止め、しばらくすると、財布からわたしを取り出しました。わたしを握りしめて、あなたの紙芝居に見入っている間、その温かい手を通して、その人の考えていることが伝わってきたんです。

その人が子どもの頃、近所の空き地に紙芝居が来ていました。

紙芝居は十円でした。十円で飴を買った子だけが紙芝居を見せてもらえました。棒つきの飴が切符がわりでした。

でも、その人には、飴を買うお金がありませんでした。家の人に、ねだることもできませんでした。他の子が捨てて行った飴の棒をくわえて、飴を買ったふりをして、紙芝居を聞いてました。

何日も通っていれば顔を覚えられそうなものですが、紙芝居師さんは何も言いませんでした。同じような年頃の子どもがたくさんいて、見分けがつきにくかったのかもしれません。

空き地に集まる子どもは日に日に減っていきました。お金持ちの子の家にテレビが来て、紙芝居よりこっちのほうが絵が動いて面白いと評判になったのです。

飴を買わない子は、大勢に紛れられなくなりました。それでも紙芝居師さんは何も言いませんでした。でも、「こいつ、ズルしてやがる」と、いつ他の子どもに指を差されるかとビクビクして、空き地から足が遠のいてしまいました。

しばらく経った頃、その人は五十円玉を手に入れました。これで本でも買いなさいと親戚のおじさんにもらったお小遣いでした。

このお金で紙芝居を見に行こう。まるまる五十円、これまで見逃してくれた紙芝居師さんに渡そう。

その人は五十円玉を握りしめて、空き地に向かいました。けれど、いつもの時間に紙芝居師さんは現れませんでした。

次の日も。その次の日も。

テレビのせいなのか、紙芝居師さんの事情なのかはわかりません。とにかく、その人と紙芝居のつながりは、そこでプッツリと途絶えてしまいました。

その人が再び紙芝居を見たのは、それから七十年余り経ってからでした。あのパン祭りの日。あなたの紙芝居です。

財布の中を探り、その人が取り出したのは、わたしでした。十円玉ではなく五十円玉を選んだのは、遠い日の心残りを思い出したからでしょうか。

あなたの名調子に耳を澄ませながら、その人の心は子どもだった頃に帰っていました。頭の中では、もう一人の紙芝居師が絵をめくり、声を張り上げていました。

五十円玉をかぼちゃ色のバケツに納めたとき、その人の中で、ひと区切りがついたんです。

いつか、ちゃんとお金を払って紙芝居を見たい。その夢を、遠回りして、やっと叶えたんです。

あの日の五十円玉は、昔、届けられなかった紙芝居への「ありがとう」だったんです。

ハガキが五円で送れた時代の五十円ですから、今のお金にしたら何倍もの値打ちです。十倍じゃ、ききません。あの日のわたしは、今の五百円玉より値打ちがあったってことです。お祭りのパンを買って、お釣りがきます。

だから紙芝居師さん、胸を張ってください。

どうして、あのパン祭りの日からだいぶ経って、こんな話をしているかといいますと、今日、久しぶりに人の手に触れられて、あの日のことが蘇ったんです。

普段のわたしは眠っているような、夢を見ているようなふわふわした状態で、誰かの手に触れられると、思考が動くのです。以前あった出来事を思い出したり、そのことについて考えたりできるようになるのです。

かぼちゃ色のバケツからあなたの赤色の財布に引っ越して、あなたが野菜を買った八百屋さんの釣り銭用の空色のカゴに移った後、お釣りになってピンクと茶色の縞模様の長財布に宿替えをしました。ファスナーのついた小銭入れの中でしばらく出番を待っていたんですが、ようやく外の空気を吸えたのが今日です。

連れて来られたのは、湯島天神。お詣りの列を待つ一人の手に、わたしは握られています。

お賽銭に選ばれたってわけです。

お金って、自分の意志ではどこへも行けないんです。あっちへこっちへ引っ越して、引っ越して。使い道を決めることもできません。投げ銭になったり、野菜代になったり、お釣りになったり。今度の行き先は賽銭箱です。

汗ばむ手から伝わってきたところによると、受験の合格祈願です。ご縁がありますようにと五円玉に白羽の矢が立つことが多いんですが、財布から取り出されたのは五円玉ではなく、わたくし五十円玉。えある大役を仰せつかりました。「合格、受験」の「ご」と「じゅ」を合わせて「ごじゅう」円、なのかもしれません。

前の人がお詣りを終え、受験生の順番が来ました。わたしを両の手のひらに挟み、胸の前で合わせて、祈っています。受験する学校の名前を心の中で唱えています。長い名前がずらずら、ずらずら。まるで寿限無です。

全部で十校。ご縁を十校分で、しめて五十円でしょうか。わたし一人で十校の合格を請け負うのは、ちょっと荷が重い気もします。五十円玉を選ぶセンスは良しとして、あと何枚か助っ人がいたほうが、気が楽なのですが。

受験生、まだ祈っています。

ダダ漏れの心の声によりますと、どの科目も勉強が追いついていないようです。崖っぷちです。それを神頼みでなんとかしようとしています。

これこれ、ここは他力本願寺ではなく湯島天神であるぞ。

たった五十円で頼みごとが多すぎるのではないか、これでは神様も割に合わないのではないか。そう思って、思い出したのが、投げ銭になったパン祭りの日のことでした。

そうでした。わたしは、そこらの五十円玉とは違うのです。ハガキを十枚送れた時代の五十円玉と同じ値打ちのある特別な五十円玉。今、ハガキを十枚送ろうとしたら八百五十円です。

空き地の紙芝居師さんに渡せなかったときからの、かれこれ七十年余りの利息を加えたら、さらにその何倍です。

つまり、わたしにはそれだけの価値がある!

五十円玉は世を忍ぶ、かりそめの姿。わたしに託された物語を聞いたら、一万円札だって裸足で逃げ出す!

俄然、気が大きくなりました。
自己肯定感、当社比五十倍、いや、百倍!

大きさも重さも変わらない同じ五十円玉なのに、大きくなったり小さくなったり、重くなったり軽くなったり。自分の値打ちって伸び縮みするんです。ちょっとしたことで。

もしかしたら、あのパン祭りの日の紙芝居師さんも。

もしもし紙芝居師さん。今日もどこかで絵をめくっていますか。声を張り上げていますか。子どもたちを、大人たちを、ドキドキさせたり、笑わせたりしていますか。

いつかまた、あなたのバケツにお邪魔することがあるかもしれません。今度はどんな人がどんな気持ちでわたしを投げ入れるんだろう。その人の手から、どんな話が聞こえてくるんだろうって楽しみです。

そのときはまた、あなたの紙芝居を聞ける。それも楽しみです。

また会う日まで、それぞれのシゴトを続けましょう。

お互い、行く先々で、もまれて強くなりまぁぁぁーーーーっ………(F.O.)

あとがき

「あの日の五十円玉が回り回ってお賽銭になったら」と思いついたのは、年始に湯島天神に行き、お詣りの順番を待っていたとき。

あの日の五十円玉とは、こちら。

紙芝居師こまりさんから話を聞いて、書いたnoteがこちら。

作品に値段をつけてお金をいただく物書きとして、「パンひとつの値打ちもない芸」の話は身につまされます。

投げ銭やギャラが少なければ価値がないわけではないけれど、自分が値切られたような気持ちを味わうのは切ないもの。

だから、物書きは妄想し、物語の続きを書きます。

あの日の五十円玉に、こんな物語があったとしたら。

あの日の紙芝居師さんへの応援を込めてナレーターの宮村麻未さんが企画した2月22日の朗読会に間に合うよう、五十円玉のひとり語りを書き上げ、朗読会本番に麻未さんにサプライズで読んでいただき、声でこまりさんにお披露目した後、こちらのnoteを公開しました。

clubhouseでの朗読はご自由にどうぞ。

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目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。