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安く見られちゃ困るけど気前良くは見られたい

あるアマチュアテキスタイル作家の軌跡を辿る回顧展について書いたひとつ前のnote「色とりどりの糸の下で─大住正子回顧展」の中で「アマチュアとプロの線引き」に触れた。

これまでのnoteでも度々取り上げている「どこからがプロなのか」。そう言えば、このテーマで下書きに熟成させていたnoteがあった。

フリーランスのフリーって無料のことだと思われてる?という話。


フリーランスの相場

仕事のオファーが来て、お金の話になるたびに思う。

こんなとき、マネージャーがいてくれたら。

「そんなに高いの?」と引かれるのは怖いけど、「そんなに安いんだ?」と見くびられるのも悔しい。安く見られず、お高くも見られない落としどころってどの辺り? 適正価格のつけ方、持って行き方、誰か教えて!

駆け出しの頃、「脚本家で食べていけますか?」とデビュー前の見ず知らずの人からメールで問い合わせがあった。先輩脚本家に相談したところ、

「そんなヤツには答えなくてよろしい」

と一喝した上で、

「テレビドラマ1分で1万円。でも長者番付には載れない、と僕は答えている」

と相場の目安を教えてくださった。

30分ドラマで30万円。ラジオドラマはさらに単価が下がるし、映画は脚本を書いてもお金が集まらず製作を断念し、約束したギャラが支払われないこともある。新人はなおさら強気な交渉がしづらく、相手の言い値になりがち。

「人によっては食べていけます」という頼りない返事になってしまう。

そんな状況はわたしがデビューした頃からあまり進歩がない。むしろ、買い叩かれる例はふえている気がする。

脚本家という職業に夢を見られるギャラをもらえるようにしなくては。ましてや金額に夢をくじかれるようなことがあってはならない。現役にとっても、これからの世代にとっても。

「ちょっと書いてみて」の軽さ

以前、どこからがプロなのか?(出張いまいまさこカフェ18杯目)というnoteを書いた。

「食べて行けるかどうか」がプロかどうかの分かれ道ならば、収入のない脚本家はプロではないことになる。だけど、年収何千万円の売れっ子より、その何分の一、何十分の一しか稼いでいない脚本家のほうが、プロ意識を持って書いていることもある。

金額の多少に関わらず、「ギャラ(対価)を受け取れる技術と気構えがあるかどうか」で線を引くのはどうだろう。

ここで持ち上がる「フリーランス、タダで頼まれがち」問題。

「ちょっとやってみて」と友人知人に頼まれるケースが多い。

ちょっと書いてみて。
ちょっと描いてみて。
ちょっと弾いてみて。
ちょっと撮ってみて。

その前に「プロなんだったら」がつく。

プロなんだったら、ちょっと書いてみて。
プロなんだったら、ちょっと描いてみて。
プロなんだったら、ちょっと弾いてみて。
プロなんだったら、ちょっと撮ってみて。

saita連載小説『漂うわたし』第161回(7月13日公開)では、服飾デザイナーの麻希が「デザイナーだったら絵を描ける?」とプレゼン資料用のロゴやイラストを頼まれる。当然のようにお金の話はされないが、イラストをバッグにしたいなどと言われ、モヤモヤを募らせる。

フリー(=無料)ランスと思われてる!?

なぜ友人や知り合いだとタダになるのか。

逆じゃないのか。

「ギャラを発生させて仕事にする」のが友だちじゃないのか。

そういうケースももちろんある(小説を買ってくれたり、映画に行ってくれたり)し、こちらからご祝儀やプレゼントにすることもあるが、当然のように「友だちだからタダですよね?」と言われると、「なんで?」と面食らう。

「お友だち価格」は提供するこちら側から言うことであって、そちら側からいうことではない。

フリーランスのフリーってタダって意味だと思われてる!?

料理人の場合、「プロなんだったら、ちょっと作ってみて」とお願いすると、代金が発生するのだが、物書きの場合の「ちょっと書いてみて」の相場はタダということになっている。

料理人は材料費がかかるけれど、物書きは材料費がかからないと思われているのか。「技術料はタダ」であり「友人のために無償で差し出すべき」と思われているのか。

実際には腕を磨くのにお金も時間もかけている。ピカソが30秒でささっと描いたスケッチには、実際には30秒と30年かかっている(数字は諸説あり)。わたしが30分でささっと書いたプロットも、30分と30年かかっている。

フリーランス仲間に聞いてみた

一時期、タダで頼まれることが続いて、友人の作曲家エーコさんに「どう思います?」と聞いてみた。

会うたびに、思わず書き留めたくなる名言をメロディに自然に乗る歌詞のようにさらりと口にするエーコさん。

以前言われた「一杯目のビールみたいな仕事したいのよね」も名言だ。わたしはワイン派なので、「一杯目のスパークリングワインみたいな仕事したいのよね」と言い換えて座右の銘にしている。

「ギャラが高いからって敬遠されるってことはないと思うんだけど、あいつが作るものはもう今じゃないって飽きられたら終わりだよね

「ビールってさ、一杯目がおいしいけど何杯も飲んでるうちに新鮮みがなくなるじゃない? でも、何度仕事をしても、ああ、エーコさんのビールはうまいって言われたいのよ」

フリーランスで稼ぎ続けるためには、指名され続けなくてはならない。そのためには、後から後から出てくる「より活きが良くてギャラが安くて使いやすい若手」よりもうまいビールを出し続けなくてはならない。

エーコさんの言葉にうなずき、背筋がのびた。

「フリーランス、タダで頼まれがち」問題についても、エーコさんは金言を放った。

「安く見られちゃ困るけど、気前良くは見られたいわね」

そうなのだ。そこなのだ。

仕事はお金でケリがつくけど

エーコさんは、お子さんが通っていた小学校でお母さんたちの合唱のまとめ役をやった話をしてくれた。

「合唱のまとめ役」と自称したのは、「歌唱指導とは言いたくなかったのよね」とエーコさん。「仕事としてではなく、親の役割として引き受けました」という自負。とともに、「お金は受け取らないけれど、技術は出し惜しみしません」というプロの心意気を感じた。

わたしはPTAで広報をやっていた頃に「今何書いてるの?」と聞かれたら「PTA新聞です」と答え、「朝ドラからPTA新聞まで、なんでも書きます!」とネタにしていたが、「プロがタダで書いている」と思われるのは、なんかイヤだなと感じていた。「タダで書いてあげてる」と思うのも、恩着せがましくてカッコ悪いなと。

お金にならないから手を抜くわけじゃない!

お金だけが報酬じゃない!

仕事の価値を決める単位は金額だけじゃない!

そうとでも思わないとやってられないほど、「仕事のほうがラク」だった。

仕事は、お金でケリがつくから。

作業と対価が釣り合うから貸し借りがない(値切られるときは別)。追加の作業が発生したら、追加のギャラが発生する(出してもらえないときは別)。実にシンプル。

一方、やる気や善意に頼る無償活動の場合、かけた時間や労力がお金では報われない。

そうなると、自己満足するか他人からの承認を求めるしかないのだが、「お金がかからないから」という理由で指名されるとき、相手が求めているのは作家性でもクオリティでもなく、「タダで手に入ること」になる。だから、極端な場合、「タダであることしかほめられない」という悲劇が起こる。

「わたしでなくてもいいじゃん」は作り手にとっては、かなりきつい。滅入る。すり減る。削られる。

売り手側にとっても「タダほど高いものはない」。そして、「安物買いの銭失い」と同じく、「安物売り」も代償を払うことになる。

「タダだから頼まれる」場合は「安く」見られているが、「あなただから頼まれる」場合は、「気前良く」引き受けられる。「本来はこれくらい支払うべき」という理解が相手にあれば、予算の限度があっても歩み寄れる。

ノーギャラはギャンブル⁉︎

仕事として引き受けたのにお金が発生しないこともある。

例えば、映画やドラマの企画を通すためのプロットや脚本。実現すれば脚本料が入るし、著作権使用料も発生するが、企画が立ち行かなくなると、プロット料すら出なかったりする。

当たれば数百万円、外れればゼロどころかマイナス。「タダ働きさせられた」と思うと徒労感が押し寄せ、余計に報われない。だから、わたしは「投資」だと考え、「書く宝くじ」と呼んでいる。

企画の出来が良ければ当選確率は上がるが、「あの役者を押さえた」という不可抗力でライバルに軍配が上がることもあり、ギャンブル性はかなり高い。時間と労力に余裕があるときに回すのが健全だ。

適正価格を払う意志

企画が終わるとき、その結果報告とともにお金の話になる。

「ダメでした。つきましては……」

続く言葉で相手の意志が見える。

できるだけ払いたくないのか。
できるだけ報いたいのか。

同じ金額でも、どんな気持ちで支払われるかで満足と不満の線が引かれる。

余裕のないなか工面してくれる1万円はありがたいが、余裕はあるのに値切られる1万円はモヤモヤが同時支給されてしまう。

「ねぎらわれる(労われる)」と「ねぎられる(値切られる)」は、よく似ているが大違いだ。真逆だ。

大事なのは、「プロのプライド」を認めて、それに見合う値段をつけようと歩み寄ること。こちらが支払う側になったときの指標にもなっている。

当たり前だと思われたくない。
わかって欲しい。
労って欲しい。

無償の家事労働を当たり前だと思われたくないのとよく似ている。

安く見られちゃ困るけど、気前良くは見られたい。
気前良くは見られたいけど、安く見られちゃ困るのだ。

安く見られない断り方

とここまで書いておいて、わたしにも「お友だち価格」を相手に求めてしまったことがあった。

「お金がないんですけど」な企画に友人の脚本家だったりイラストレーターだったり作曲家だったりを巻き込むとき。

わたしもノーギャラなので、あなたも。
予算がないので、一緒に泣きましょう。

わたしとしては、「お互いさま」なオファーのつもりだった。引き受けてもらったことも、断られたこともあった。

あるとき、申し出を断るマネージャーさんからのメールを読み、反省した。プライドを持って良い仕事をするには、わたしの提示した条件は合わなかった。ギャラを削ることは、プライドを削ることなのだ。丁寧で真摯な文面に、わが身の軽率さを恥じた。

声をかけたのはもちろん、「この人と仕事したいから」だけど、「この人ならお金がなくても引き受けてくれるのでは」という期待もあった。そんな甘さを見透かされたように思った。

そのときのメールを掘り起こし、読み返した。覚えていた以上にうなずくしかない内容だった。

まず、声をかけてもらったことへのお礼と企画への前向きな感想があり、その上でご一緒できないという結論をはっきりと告げた後、その理由が明快に述べられていた。

これまでの制作経験から、その予算では納得のいくレベルに仕上げるのが難しいこと。どんな仕事でも引き受けるからには妥協せず、良いものに仕上げたい。だからこそ無理のある仕事は引き受けられないこと。同じ予算であれば、こんな方法がありますという代案まで提示してくれていた。

何人ものスタッフの力を合わせて一つの作品を作り上げるなかで「誰かしらだけに負担を強いて臨んでもうまく行かない」というこれ以上なく真摯で説得力のある実感に続けて、あらためて声をかけてくれたことへのお礼があり、いつかご一緒できますようにとメールは結ばれていた。

思わせぶりなことは言わず、できないことはできないとはっきりと伝え、作品に取り組む姿勢に予算が見合っていないことを相手にわからせ、けれどこれで縁を断ち切るのではなく、ちゃんと報われるお仕事でご一緒しましょうと将来へつなぐ。

読み返して、メールを読んだ当時のことを思い出した。申し出を断られたのに、清々しい気持ちになった。安くても引き受けてくれるのではという甘い期待は吹き飛び、この人に引き受けてもらえる予算を引っ張ってこなくてはと気が引き締まった。「おっしゃる通りです。自分の仕事に置き換えると、よくわかります」とお返事した当時以上にうなずいた。

まず自分が自分の値段を下げちゃいけない。安く見られないってこういうことだ。


目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。