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待賢門院璋子の生涯

 私は、王朝文学が大好きで瀬戸内晴美の「中世炎上」や「煩悩夢幻」、永井路子の「この世をば」など平安時代の作品をよく読みます。しかし、この時代は位階が複雑なので私は作品を読みながら系図を書いていきます。

 天皇が生前に位を退かれると「上皇」と呼ばれ、「上皇」が出家すると「法皇」になります。また、中宮は天皇の正妻で別名を皇后とも言います。しかし、歴史を遡っていくと天皇の正妻に相応しいのは中宮ではなく皇后の方です。そもそも中宮とは本来「皇后が住む所」と言う意味であり正妻を指す言葉ではありません。以後、皇后の定員は二名となり一方を皇后宮他方を中宮と呼ぶようになりました。

 大河ドラマ「光る君へ」にも一条帝の後宮には皇后定子と中宮彰子の二人の后が同じ資格、待遇を与えられています。渡辺淳一作の「天上紅蓮」に待賢門院璋子と言う女性が描かれている。時の権力者、白河法皇が十七才の皇太子の折二十八才の道子を東宮妃に迎えられた。2年後、十五才の賢子が妃に迎えられ東宮のご寵愛を一身にあつめられ、道子妃はいよいよ疎んじられた様です。白川天皇と賢子妃の間には二人の親王と三人の内親王が誕生されたが、賢子妃は二十八才の若さで病死された。その後長い間、譲位されて上皇となられても賢子妃が忘れ難く妃や女御を置かれる事はなかった。ところが下級の女官として上皇の御所に仕えていた人妻の祇園女御をご寵愛される様になり、これに恨みをもった夫の惟清を因縁をつけて配流に処した。このころの天上人はやりたい放題だったのですね。

 そして、今や白河法皇となられましたが祇園女御との間に子どもを授かることが無かったので、法王とは従兄弟関係にあたる藤原公実の末子、璋子を養女に迎える事になりました。

 時はたち、法王は六十三才に璋子は十五才になられたが彼女を掌中の珠の様にご寵愛されました。しかし、法王は最愛の璋子を孫の鳥羽天皇に入内させる事をきめるのでした。鳥羽天皇と璋子の間には五人の親王と二人の内親王の子宝に恵まれましたが白河法皇と璋子の関係が入内前から公然の仲である事を天皇は知っていたが祖父である法王の絶大なる権力には逆らえなかったのです。

 かって、長子(崇徳天皇)が誕生された時「我の子ではない」とつぶやき秘かに(叔父子)と呼んでいた。祖父の子なので自分の叔父に当たると言う意味で言われたようです。

 元永二年から大治四年までの十年間は、璋子にとって最も栄華に満ちた幸運な時代であった、年齢から言うと十九才から二十九才までの十年間で、崇徳天皇以下七人の子を産み女院とまでなった期間です。大治四年に白河法皇が崩御され、璋子はこれ迄の栄誉栄華はどのように失せていくのか、その冷酷な事実だけは誰よりも自分自身が最も深く肝に銘じてわかっていた。

 鳥羽上皇は三十九才で出家し法王となりました、すでに得子という皇后を娶り皇太子まで授かったことで、璋子は四十二才で出家することになりました。璋子が晩年を過ごし、生涯をとじた京都の法金剛院には、彼女の肖像が残されていますが、凄く美しい女性です。

待賢門院璋子が、その華麗な生涯を閉じられたのは四十五才の夏でありました。

【出典】待賢門院璋子の生涯-椒庭秘抄(朝日選書 281)はコチラから!
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