『悪女』と呼ばれた日野富子の真実
八代将軍足利義政の時代、応仁の乱は畠山政長と畠山義就の家督争いや、将軍家の後継問題、有力大名の細川勝元と山名宗全の主導権争いなどを要因として諸大名が東西両軍に分かれる形で応仁元年に勃発したが混迷を極めた戦乱は十一年にわたって続き、主戦場となった京都の荒廃や室町幕府の衰退を招いた。
《日野富子の誕生》
享年12年(1440年)日野重政の娘として京都で誕生した。
足利将軍家と縁戚関係にあった日野家の出身で康生元年(1455年)富子は16歳で義政の正室となりました。
しかし、義政にはすでに今参局(いままいりのつぼね)という乳母であり側室でもある
特別な方がおられたのです。
ここに義政をめぐる日野富子と今参局の闘いがあからさまになるのでした。
《日野富子の魅力》
私が日野富子に興味を持ったのは、経済的に無能な夫に代わり京都7口に関所を作り関銭を徴収、さらに米の投機や高利貸しなどで蓄財に励んだその時代には珍しい、とてつも無いエネルギーの持ち主だったからです。
人々はそんな富子を悪女と呼ぶが、彼女からすれば働かない夫と幼子を抱えて自分がしっかりしないわけにはいかないのです。
平穏な時代であれば、富子は将軍の正室として贅沢で悠々自適な生活を送れていたでしょうがなんと言っても応仁の乱の真っ只中、京都のあらゆる場所は焼け野原、金持ちは奈良に疎開していて、街中は盗賊が荒らし回っている状態なのです。
その中で、富子は献上品などを蓄え現在のお金に換算すると実に70億程の資産を持っていたらしいのです。
でも富子は私財を投じて天皇家と将軍家の面子を保ったり、神社仏閣の修復を行うなど使うべきお金はちゃんと使っているのです。
実は富子は、お金に困っている諸大名達にお金を貸して戦乱を終結させたのです。
一方の義政は、人々が飢えているのもかまわず建築や庭園の造営にお金を使いまくっていたのです。
妻の富子は、必死に稼いで天皇家と将軍家の屋台骨を支えているのです。
そのどこが悪女ですか
《若くして散った麗しい9代将軍》
足利義政と日野富子の待ちに待った男子義尚は輝くばかりの美しい赤子であったが僅か9歳で室町幕府9代目の将軍に就任致しました。
富子は義尚を立派な将軍にするために幼い頃より、関白一条兼良に英才教育を頼み文武両道を志す様になりました。
義尚が23歳の時、近江の守護大名の六角氏が将軍の所領にまで侵してきたので、周囲の大名に呼びかけ六角氏征伐に出立します。
将軍自ら軍を率いて戦地へ赴く様子は、足利家の始祖足利尊氏を彷彿させ義尚の凛々しい姿に心を打たれる者も多かったようです。
物々しい幕府の軍に恐れをなして六角氏の軍は一目散に逃げてしまいますが、義尚は敵の首をとるまで京には戻れないと深追いしてしまいます。
周りの大名達の反対も聞かず、自分の意見を通す義尚に周りは不満が募ってきますが、それ以上に義尚はストレスが溜まり酒の量が増えて身体を壊してしまうのです。
1489年、日野義尚は25歳の若さで亡くなりました。
《日野富子のその後》
義尚なき後、富子は足利義視と妹良子の子義材(よしき)を10代将軍に就任させた。先先代将軍の正室、日野栄子の死をきっかけに義教は正室の日野宗子を遠ざけ正親町(おおぎまち)三条家の娘で側室の三条尹子を正室に昇格させた。
しかし、宗子の妹で側室の重子が7代将軍義勝と8代将軍義政を産み日野家を救います。富子は、代々の将軍家の正室を日野家から輩出させ、継続する事を望んでいたのです。
真実は、その時代の権力者の思うがままに捏造され、後世の人々はその通りに信じてしまうのです。もし、歴史的に興味深い方が居られましたらいろいろな角度で調べられると面白い事実が隠されているかもしれませんね。
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