![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/165184205/rectangle_large_type_2_8bf2da1b969ee73224dd735890be827e.jpeg?width=1200)
【辛抱】の3年間、浦和スポーツクラブJrユース(現:浦和レッズ)。すべては次のステップへの学び【サッカーは僕の人生の教科書だった】#007
1995年、浦和スポーツクラブJr.ユース(現・浦和レッズ)でチームは日本一。しかし、メンバー外だった僕は悔しさしか残らなかった。10年後、全国クラブチームサッカー選手権で再び日本一の舞台へ。スタメンとしてその瞬間を迎えたとき、ようやく自分を認めてあげられる気がした。Jクラブの下部組織から30年、長い一瞬のなかで感じて、わかったことを言語化する。
1993~1995年の3年間、浦和スポーツクラブ(現:浦和レッズ)でやってきた感想を一言で表すと「辛抱」。
というのも、僕はレギュラーになれず、Bチームでひたすらサッカーをやっていたからである。
「努力が足りなかった」と言えばそうかもしれない。ただ、努力だけでは、どうしようもない現実もあることを知ったし、この経験があるから小学生年代にやっておくべきこともわかった。
それと同時に、化け物みたいな仲間と一緒にやって学んだことは、サッカーのむずかしさや厳しさ、そのなかにあるサッカーの楽しさだ。
何だかんだで、うまい選手や仲間とやっていたことは、僕のサッカー人生において、想像以上に刺激を受けていたと思う。
一緒にやってきた仲間や先輩たちの中には、浦和レッズのトップと契約した選手も多くいた。
プロ契約した先輩や同級生、後輩たち
鈴木慎吾
神野真郎
三木崇史
高橋厳一
千島徹
岩本隼児
僕がJrユース時代、鈴木慎吾さんや神野真郎さんたちの試合を何度か見ることができた。
当時、あのレベル高い選手たちのプレーを間近で見て、学べる環境があったのは、後のサッカー人生に大きな影響を及ぼしたと言える。
さらに、プロ契約した同級生や後輩たちと一緒にボールを蹴った経験は、育成年代を指導するときの基準になっている。30年以上経っているが、サッカーの本質自体はブレていないので、トップに上がる選手がどれだけのサッカーができないといけないのか、知っているのは本当に役に立っている。
3年間の振り返りで「辛抱」という言葉を使ったけれど、決してマイナスなことだけではない。
その分、後のサッカー人生において、大きな大きな学びと経験を得るられたのだから。
あのときのメンバーに心から感謝したい!そして高校サッカーへ挑む!
#008へつづく
日本一の大会、高円宮杯でチームが日本一になるも、大きな挫折を味わった話「高円宮杯優勝!メンバー外の僕とレギュラーの違いは何だったのか【サッカーは僕の人生の教科書だった】#006」も、ぜひ読んでみてください。