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絶望…生え抜き選手でプロ契約した千島徹入団。勝てないヤツには勝てない【サッカーは僕の人生の教科書だった】#005
1995年、浦和スポーツクラブJr.ユース(現・浦和レッズ)でチームは日本一。しかし、メンバー外だった僕は悔しさしか残らなかった。10年後、全国クラブチームサッカー選手権で再び日本一の舞台へ。スタメンとしてその瞬間を迎えたとき、ようやく自分を認めてあげられる気がした。Jクラブの下部組織から30年、長い一瞬のなかで感じて、わかったことを言語化する
浦和スポーツクラブに入団してから、あっという間に1年間が過ぎ去った。
1年間のフォーメーションは4-3-3。僕が任されていたのは右トップ。
僕と同じポジションには、特待生扱いで入団した選手。そのため、99.9%彼がレギュラーで僕は補欠だった。
実力差が大きすぎ、彼からレギュラーを奪うのは不可能に近い。
「キャプテン翼」のキャラにいる、翼くんと石崎くんの実力差くらいと言えばわかりやすいだろう。
そんな中、2年生になってからフォーメーションが4-4-2へ変更したのだ。これはチャンス!
1年間同じポジションだった彼は、左ハーフを任された。僕は右ハーフ。
「俺、右ハーフでレギュラーで出れるかも」自分自身に期待を込めてテンションが上がっていく。
でも、世の中は、そんな簡単に回っていない。
そんな淡い期待も一瞬で打ち砕かれた。またもや僕は、サッカーの神様に試練を与えられた。
同じポジション、すなわち右ハーフを任されたのは、数年後、生え抜き選手として浦和レッズのトップチームと契約する選手、あの「千島徹」が入団してきたからだ。
彼は、Jr.ユース時代から周囲と比べてもセンスとレベルが桁違いだった。本当にうまかった!
プロ契約前から彼のプレーを知っている人なら、この悲劇がどれだけのことかわかってもらえるだろう。もう生き地獄レベル。
石崎くんが翼くんからレギュラーを奪おうとしているようなものだから。
だからといって、練習や試合を放棄するわけにはいかない。彼のプレーからマネできるところはマネしたし、自分の苦手な部分は、練習がない日に練習もした。ただ、この努力は、Jr.ユース時代には報われなかった。(高校に入ってから報われたと思っている)
千島徹は、Jr.ユース時代に世代別代表にも選ばれるほどの選手である。彼のような選手に出会ったことは、僕のサッカー人生に少なからず何かしら影響を与えただろう。
入団当時、リフティングが100回もできなかった僕。同じポジションにすごい仲間がいたから、負けたくないの一心で努力してきた。
1年、また1年。日の目をみることもなく、時間だけが過ぎ去っていった。
できる選手にはできるけど、できない選手はできないなりに努力を続けるしかない。
彼からは、そういう大事なことを教わった気がする。
僕はユースに昇格できず高体連に進み、彼の活躍を追うことはできなかった。後に彼が、浦和レッズのトップと契約したと聞いたとき、本当に嬉しい気持ちになったことを思い出す。
とはいえ、あの名言(大迫半端ないって)めいた言葉が脳裏をよぎる。
「俺と同じポジションにくるやつ、半端ないって、もぉ。特待生とか世代別代表とか半端ないって!そんなんおらへんやん、普通!言っといてや、いるんだったら」
正直、僕のJr.ユースに残された2年間は‟絶望”という言葉がぴったり合っているだろう。同時に自分のセンスのなさにも絶望していた。
誰にでも過酷な状況は訪れる。きっとプロになった千島徹も順風満帆なプロキャリアではなかったはず。
じゃあどうして、過酷で辛い状況にもかかわらず、僕がサッカーを辞めずに30年以上続けているのか。そこには理由がある。
「サッカーには人生を豊かにする力がある」
これ一択!
サッカーに限らず、スポーツにはこういうパワーが潜んでいる。僕は、Jrユース時代に苦しい想いでがほとんどだけど、サッカーをできる喜びは忘れたことがなかった。
だから今、うまくいかなくて悩んでいる選手たちも、乗り越える力があるならば続けてほしい。その先に必ず自分自身の答えがあるから!
#006へつづく
浦和スポーツクラブ(現:浦和レッズ)Jrユース1年目に参加した話「浦和スポーツクラブJr.ユース(現:浦和レッズ)!夏の大会の記憶【サッカーは僕の人生の教科書だった】#004」も、ぜひ読んでみてください。