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結婚して半年、母が世を去って6ヶ月

今年は、自分にとって、「変化に自らをなじませる年にする」と誓った。
2月に結婚し、そして同じ月に母を亡くして、その後に、決めたことだ。

仕事も含めて、すべての外的要素の優先度を著しく下げた。代わりに、自らの内面を変化と向き合わせることの優先度を大きく上げた。

そして季節は冬から春を越し、すっかり盛夏となった。結婚からは半年が経った。母がいなくなって6ヶ月が過ぎようともしている。

あとでも書くけれど…。もともと最初から、この2つの事象には、何の関係もない。そこを改めて、整理しておきたいなと思う。

母の肺がん

母が最初に肺がんだと分かったのは2016年の9月のことだった。その知らせは、ぼくの心に非常に強い衝撃を与えた。
当時はがんのことをほとんど知らなかったし、正直なところ今になってもさして知識が増えたわけではない。ぼくにとって、別に「がん」という病気そのものは当事者的な関心の向かう先ではないのだと思う。
この世で最も愛している存在の母が、がんによって奪われるかもしれない。その想像に恐怖し、恐怖を和らげるために、あまりそれを正面から受け入れないことにした。

母が肺がんと分かってから、父とぼくは、動揺した。動揺し続けた。そして、互いを助け合うことができなかった。それぞれ1人1人が、孤独に動揺に飲まれていた。そこを救ってくれたのは、病気の当事者である母だった。母のがんという衝撃のあとも、なんとか普通にやりたいように生きてこられたのは、他ならぬ母のおかげだった。
母は、笑顔で、治療のために通院、ときに入院を続けていた。特に、病気の発覚の初期は、ほとんど外面に現れる健康上の不都合はなかった。もちろん、既に71歳だった母は年相応の老化の影響は受けていたけれど、脳の機能に何ひとつ支障はなく、言語機能も何も問題はなかった。少し年はとったけれど、母は相変わらずに明るくて元気な母だった。
そこにぼくは救われていたと同時に、その元気そうな表出の裏で、病気が蝕んでいくのだという事実は、見ないことにした。
であるがゆえに、父とも別にそのことについて、向き合って話すことはなかった。そんなことはしたくなかったのだ。正直にいえば、ぼくは父のことがずっと苦手だったからだ。
愛する母が先に死ぬかもしれない、父と2人残されるかもしれない。それを想像することは、耐え難いことだった。目を背けることしか、ぼくに選択肢はなかった。

2017年が過ぎようとしていた。母の病状は、見た目にはそこまで悪化していなかった。ただ、少しずつ身体に不自由なところが出てきた。たとえば、手がしびれるようになって、あまり力が入りにくくなっていた。
母は、それをリューマチだと言っていた。なぜか、がんと結びつけて語ることがなかった。
今思うと、それは母なりのぼくと父への気遣いだったのかもしれない。あとは、自分自身に、がんの治療が奏効していると認識させたいという部分も幾許かはあったのだろう。
これまで書いてきたように、1年が経っても、ぼくはやはり心の中では母ががんだということを認めていなかった。
いやもちろん、事実としては知っていた。ぼくは、科学に対する信頼が強く、逆にエセ科学や民間療法が大嫌いな人間だと自認していた。医学も含めた近代科学が、どれだけ人類の公衆衛生、生存率向上に貢献していたかを、知識としては十二分に理解しているつもりだった。
現代の科学的医療(がんにおいては標準治療)は、たしかに母のがんに対して一定程度の効果を挙げていることを、一応認識していた。
だがしかし、それは寛解、すなわち完全にがんの克服という状態を作ってくれるわけではないということもまた、薄々と感じ取っていた。治療を続けても、どうもそれが終息する気配はなかった。

出会いから結婚まで

ここで一度、話を変える。
2017年、ぼくは婚活パーティーに複数回参加していた。なぜかというと、正直にいえば半分はブログのネタ探しである。
もう半分は、なんとなく結婚という概念の当事者化に興味があったからである。この後半の理由は、別に気恥ずかしいから気持ちをぼやかしているわけではない。実際、この程度だったのだ。

そもそもぼくは人生においてほとんどパートナーがいたことはない。生物学的には男性、性自認は男性、性的志向は女性、性表現も男性。ということで、別に無性愛というわけでもない。だがしかし、パートナーがいた時期は人生においてほぼない。ずっとずっと、「レンアイ」なるものが苦手きわまりなかった。

半分は自虐的な納得のため、半分は外圧から逃れる方便のため「モテないから」ということばを使っていた時期も長い。今振り返ると、本当にそれのことばが便利だから使っていたという他はない。実際のところは、性の外的方向エネルギーレベルが高くない、というのがおそらく妥当な説明だと思う。無性愛ではないが、性は自分の中でそこまで重要度の高いものだと感じていなかった。

という状態なので、性的指向が付随した恋愛の経験もほとんどなく、その先に置かれる(恋愛結婚ケースにおいての)結婚などというのは、まったく現実味のない話だった。
職場や、趣味を通じて出会う人の中には、たしかに「好きになった」人も幾人かはいた。しかし、その人たちと、パートナー関係になったことはほとんどない。今思えば、相手の望むことと関係なく、自分が想像と伝聞の範疇で描いたイメージを相手に押し付けていただけなのだろう。そのことは、相手の人に申し訳なかったなと思う。
一般的な「レンアイの秘訣本」には、「一度くらいダメだからといって恋愛そのものを諦めるなんてもってのほか。世界にはたくさんの異性がいます。いろんな人と少しずつ関係を築いていけば、いつか必ずあなたも素敵なパートナーに巡りあえます」と書いてあるんだと思うが、これまでの記述から分かるとおり、そんな言葉は1mmも刺さらないのだ。「あ、やっぱうまく行かないんだな」と思った瞬間に、すべては終わる。その繰り返し。

という状況の中で、いっそのこと婚活パーティーくらい「目的が一致した人たちが集まる場」のほうが自分にとって精神的にラクなのではないかという予想が働いた。ブログのネタを増やしたいというハラもあって、ネットで見つけた婚活パーティーに参加した。
そのときの体験の詳述は省くが、結果としては、そこでパートナーに巡り合うことはなかった。何回か「デートを重ねる」という状態になる人はいたのだが、ぼくの中で、その人とそれ以上深い関係になりたいという意欲が湧かなかった。それが見透かされたのか、ある日、相手からの音信が途絶えた。もっともなことだ。

細かい経緯は端折るが、上の件から2年近く後の、2019年6月にたまたま参加したマッチングパーティで、ぼくは今のおくさまに出会った。しかしこれも運が良かったという他はない。
彼女は、確かに最初会ったときから、話して楽しい人だとは思ったが、まさか結婚するなどという予感は全くなかった。
しかし、少しずつ一緒に過ごす時間を重ねていくと、自分の中の「恋愛は疲れる、自分にとって遠ざけるもの」という意識がどんどん薄くなっていった。それくらい一緒にいて、自分が無理をせずに建設的にニコニコできる人だと感じるようになっていったからだ。

そして付き合い始めてちょうど半年経った今年の1月4日に、結婚する約束をした。だが、それを提案する10秒前まで、本当に自分の中に結婚をしたいという欲求はなかった。ただ単純に、結婚というものが手段として、2人の人生に役に立ちそうな直感がしたので、深く考えずに話をした。時間にして、どれくらいだったか。10秒か、30秒かわからないけど、1分はかからなかったような気がする。彼女は快諾してくれた。
 
その日のうちに、婚姻届を出す日付は、2月2日に決めた。別にもっと先でも良かったけど、結婚はただの手段だと思っていたので、特に先延ばしにする理由もなかった。数字の並びがきれいな日曜日、それだけのことだった。

2月2日は、真冬なのに、なぜかとても暖かく、しかし空は青く美しい最高の日だった。
婚姻届を出すときに、友人に写真を撮ってもらった。その写真は、自分でも驚くほどに嬉しそうだった。そしておくさまの優しさがにじみ出ていた。

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死までの20日間

振り返って結果的に考えると、結婚するタイミングは、そこしかなかった。
2月5日に、母は自力で歩けなくなって、緊急入院した。
父からその電話を受けて話を聞いた時、ぼくは職場にいた。胸がざらつくとは、まさにあの時の心理を指すのだろう。ずっと目をそらし続け、認めないようにしてきた母のがんは、とうとう逃げ道を塞ぐことに成功してしまった。

その日は、結婚をFacebookで報告しようと思って、その文章を書いたり、一足先にこれまで世話になった方々に連絡をしたりしていた。とはいえ別にまったく浮かれた気持ちではなかった。なぜなら繰り返しになるが「結婚は2人の人生を実りあるものにできる選択だろうという予想に基づく手段でしかない」と思っていたからだ。
とはいっても、やはり気心知れた友人や、お世話になった方々から祝福されることは、嬉しく感じるものだった。
 
この日の感情の変化は、「天国から地獄に落とされる」ものだったのだろうか。そうではない。
このときでもなお、自分の結婚と、母の病気は、結びつかなかった。
そして、半年経った今も、ぼくはまったくそれを結びつけていない。

2つの事実は、何の関係もないからこそ、ぼくは自分の人生を好きでいられるし、大切な人を好きであり続けられる。

おくさまは、母の代わりなどではない。
結婚というただの手段が、別の痛みを和らげたりはしない。

感情を混ぜることでは、大切な命が終わっていく怖さからは、逃げることはできない。
でも、支えてくれる人がいて、その人を心から信じることができたなら、感情の波に完全に飲み込まれても、波が引く時までを、ゆっくりと水の中で待つことができる。不必要に恐れることがなければ、溺れたりはしない。

おくさまがぼくに寄り添ってくれたことで、ぼくはちゃんと、ここに書いたような整理ができたんだと思っている。

緊急入院から20日後、2月25日の未明に母は息を引き取った。
こう書くと、たったの20日というふうに読める。でも実際には、あれほど濃い20日間もそうはないと思う。

毎日少しずつ、母の体は動かなくなっていった。
死が近い肺がん終末期患者は、すべての人がそうなのかは分からないが、呼吸が苦しくなっていく。少なくとも母はそうだった。入院して数日は、看護師はじめ、多くの人とたくさん話していた。しかし、日を追うごとに辛さが増していき、他者と会話できる時間が短くなっていく。最初は見舞客と1時間話すこともできたけれど、最後のほうは、10分話すのがやっとで、それも多くは聞いているだけだった。でも、口を開けば快活で、冗談もよく飛び出た。肺がんはたしかに母の呼吸器と全身を蝕んでいたが、脳のことばの機能までは届かなかった。

20日間、ほぼ毎日病院に通い続けることで、ぼくと父は、母が死の床にあり、決してもう元に戻ることはないのだということを理解した。それはこの3年半の間、決して認めないようにしてきた事実を、逃げ場無く、濃縮して味わうことになったということでもある。濃縮された死の現実は、苦かった。でも、突然の死ではなく、少なくとも20日間あったことは、貴重な時間だった。
母がなんとか生き抜いて、この時間を作ってくれたのだ。ぼくはそう思っている。

関係の変化

もうほとんど書くことはない。

ぼくは生きている。おくさまも生きている。父も生きている。誰にとっても一番望んだ状況ではないかもしれない。けれど、日々やるべきことをやって、やりたいこともやって、生きている実感はきっとある。と、観察する範囲では思う。

結婚から半年が経って、ぼくとおくさまの関係は何かが大きく変わったとは思わない。ただ結婚当初と違って4月から同居を始めたことで、日々の生活の中で感謝し合う機会が増えた。それは嬉しいことだと思う。

母の死から6ヶ月が経って、ぼくと父の関係は、結構変わった。3年以上、ぼくからすると母、父から見れば妻、と生きる時間の終わりが近づいていることを受け入れないようにして、あまり会話もしてこなかったけれど、今は会話をしている。それは多分、母(自分の妻)に対しての申し訳無さと、ぼくのおくさま(息子の妻)に対する気遣いがあって、つまらないことでぶつかることを避けようという姿勢をお互いに持つようになったからだと思う。
そりゃ、最初からなんでも話せる父と子だったら良かったのかもしれない。だが、今からそれを望んでも意味のないことだ。それよりは現実の中で、関係が少しずつ構築されていく現状を、肯定的に捉えるほうがずっと良い。

終わりに

このnoteは、結婚の良さを語るために書いたわけでもないし、家族を失うことへの事前準備を薦めるために書いたわけでもない。

n=1の体験談をさも正解のように語るなんていうのは、ぼくが最も好まないことだし、それをしてくる他者のふるまいが、いかに自分の人生の肯定感や幸福感を下げることか、身をもって知っている。

書くことはあくまで自分との対話の手段なのだと思う。そして、こうやって書いたものがネットを経由して他者の目に触れると、それを素材にして、その人との間で、これまでになかった深さで対話することもできる。それは真に驚くべき発見に満ちた瞬間であり、それが好きだ。

ぼくの結婚に関する話についてはこっちのnoteをどうぞ。

※補足情報
カバーのかき氷のお店は、いちごスイーツ専門店「いちびこ」代々木上原店です。8/1以降イートインを再開しています。休日の昼に関わらず非常に空いていたので、ゆっくりかき氷を味わいたい方に大変おすすめです。ほかにも美味しい苺スイーツ多数なので、興味ある方はぜひ足を運んでみてください。東京、宮城などに店舗あり。UberEatsにも対応開始とのこと。
※2023年追記
いちびこ代々木上原店は閉店したようです…。三軒茶屋、太子堂店は引き続きやっているのでよかったらそちらに。


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