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[質問箱]コロナへの危機意識が低い人に憤りを感じます。ムカつきます。

Q. コロナへの危機意識が低い人がいて憤りを感じます。正直、ムカついています。危機意識の格差はどう埋めればいいのでしょうか。それともそもそも埋めるべきものではないのでしょうか。
 
A. 僕も先日、電車内でマスクをせず、だらーんと足をひろげて座りながらしゃべっている若者を見て「おいおい、ざけんな」と憤りを感じたところでした。誰もが「感染し得る」し「感染させ得る」状況の中では、特に、他の人への配慮は当然あってしかるべきです。ある人の怠慢で放たれた飛沫にウイルスがまぎれていて、それがめぐりめぐって既往症をもつ高齢者を死に追いやるかもしれない。そう考えると、警戒心と危機感を抱かずにはいられません。
 
しかし、質問者さまが仰るとおり、危機意識は人によって異なります。残念ながら、危機意識は人間の「心」の問題で、そう簡単に「変える」ことはできません。どんなに注意を促しても、例えば「台風が接近しています! 海岸には近づかないでください!」といくらアナウンスしても、「台風の時の海って、どんなかな?」と波濤さかまく状況を見に行ってしまう人がいるのです。

それこそそういった人たちは、自分が「あと少しで死んでたわ」といった体験でもしない限り、意識は変わらない。否、そんな経験をしても変わらない人はいくらでもいます。

変えることができるのは危機の「意識」ではありません。
「習慣」です。

避難訓練でも、「津波てんでんこ」「命てんでんこ」でもそうですが、いざとなった時に意識以前に「そうするものである」とすり込むことで、危機回避の度合いを高めることはできます。というか、現実的にはそうするしかありません。

新型コロナでいえば、コロナウイルス自体の危険性や日常におけるウイルスや危険の潜在性、社会的・経済的な負の影響等を喧伝しながら啓発していく。また、生活の導線に制約の仕組みを配置する――レジ待ちで間隔を空けて立つよう促すマーキングや、消毒、検温の場の提供など――といった活動はとても重要です。これなしではアノミーでしょう。

憤るのは、ごもっともです。私も憤ります。

ですが、その感情をそのまま相手にぶつけても、ほとんどはメリットを生みません。家族や同僚など近しい人になら、言うべきタイミングに諭して、効果があることはありますけれど(それでも困難なケースは、あまたとあります)、基本はその「憤り」を正義感に結びつけず、せいぜい「相手が変わることを期待せずに注意する」くらいにしておくのが良いと思います。もちろん、変化のために何かをすることを諦めないのは大事ですが。

しかし、憤りは、鎮めていきましょう。人間、意志して忘れる(鎮める)ことはできないので、違うことを考えた方がいいかもしれません。

相手に抱いた悪感情にとらわれ続けない。
正義感にとらわれすぎない。
相手を「悪の対象」にして、執着しない。
期待や望みをぶつけない。

それよりも、自身が誠意ある生き方をして、丁寧に生きて、まわりに安心をばらまけるようになった方がいいです。そのプロセスに、上記項目は実は必要ないんです。敵をつくったり、正義を掲げたり、「絶対に人は変わる!」といった価値観にしがみつくことは、自身の生き方を洗練させることにあまり寄与しません。憤りは、内省に活かすくらいにしておきましょう。

それでも憤りが収まらない! というようなら、ちゃぶ台でもひっくり返して、そのあとしっかり掃除してください。もとよりもピカピカなくらいに、ね。

[質問箱]
https://peing.net/ja/7d1eef526dd553?event=0

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