週間レビュー(2022-5-22)「僕らは幸福を発明した」最後の人間はそう言って、まばたきする
五月病なのかわからないが気持ちが常に沈んでいた。が、大量にやるべきことをひとまず毎日自転車操業のように倒し続けた1週間だった。今週は雑多に考えていたことや面白かったことを書いておく。
1.ものを作ることについて
新しい価値(みたいなもの)を延々に創り続けないといけない社会の虚しさを強く感じている。結局、それらの積み重ねで先端的と呼ばれる状態が更新されるわけだけど、償却資産には多くはならず、心を込めて作ったものは、次の日には捨て去られるという現代の社会包摂の原理の中で、自分から何かを生み出すというのは厳しいなと感じている。特に時間軸の長い建築はさらに混沌としている。
価値が価値であることのタイムスパンが短い今の社会システムにおいては、ショート動画のようなものを作る人間がクリエイターと呼ばれたり、テンプレートを駆使したアウトプットをクリエイティブやデザインと呼ばれたり、それを流通させることで短期的には持続する価値になるのは納得だけれど、長期的に価値あるものを作ろうとすることが如何に無意味で如何に虚しく、心を病ませるかという認識のなかで生きる人間の心情の表れのような気もする。クリエイターがやっていることはプラットフォームに従属した労働者なんだけれども。
ものづくりはものに対して自分の生命を移すことにあると思うと、クリエイターを増やすというビジネスマンの多くが言うことは生命の切り売りを薄利多売することを肯定していると思い状況は健全とは言えないと思う。
人生を本気で削って作るものが人間の生産物として美しいはずなんだけれど、今のクリエイターと呼ばれる人間のしていることはAIがやれば良いことなのかもしれない。つまり、他者の複製とNを集めたなかでのクリエティブなのであって、平均化の中に埋もれるものになってしまう。
このトピックはもう少し深く考える必要があるし、「社会と仲良くなって現在からこれからを考えたとき、何を作るべきか、作りたいかよくわからない。作りたいものを作ると言うのもどこか違うと思っている」というややこしい今の自分にとっては必ずアンサーしないといけないと思っている。
2.ツァラトゥストラは如く語りき
設計演習Dの制作課題を作る過程で、ツァラトゥストラは如く語りきを読み制作課題を即興的に作った。設計演習はいつも講評には上がるけれど、大体いい評価はもらえない。というか自分が課題の趣旨を理解できてないのか、自分でも求められているものにピタッとはまっていないなと常に思うので問題だと思う。ちょっと何かずれている。
津川先生から言われたのは「造形的で表現力に富んでいるのは確か。そして物語を物質に置換させてダイアグラムのように再構成している。しかしアートであり空間になりきれてない。」ということだった。確かにそうで、自分の建築作品もそうで、哲学やダイアグラムは自分でも面白いと思うがそれを空間というものに十分に落とすことができない。これは自分の考え方の問題なんだろうけれど克服したい。
ニーチェのツァラトゥストラは如く語りきは楽曲になるほど示唆に富んでいるわけだけれど、やはり哲学者として人間への精神発展の可能性を望む葛藤表現が強く現れていることが特に面白い。そして、自分以外の登場人物を匿名にしよう、そしてストーリーテリングにしてみようなどとても一つの作品として工夫されている点も作品として秀逸だ。
「最後の人間はそう言って、まばたきする」…これはとても示唆的だ。まるで現代人のようで、啓蒙思想の限界性感じさせるニーチェの文章は今も響くものがあって素晴らしい。
3.生環境構築史とミラーワールドについて
生環境構築史というものがあるが、それらが分析するに現代の構築様式は3に位置し、人類史上最高の技術をもって生環境をつくり、ひろげるという思想に基づいている。
土地の拡張や快適な空間の拡張を進めてきた我々は、次の開発地として宇宙空間、多惑星に手を差し伸べようとしている。つまり、生環境としての都市を捉えた時、自己構築している地球との関わり合いのなかで構築されてきた人類の生環境が、大地・地球から離脱しようとしているのである。
しかしながら、構築様式3を用いた拡張には限界が見られる。地球の巨大な運動は人間の構築活動を遥かに超えており、コントロールしようとすればするほど、災害は激甚化する。市場経済、資本主義経済の拡張のエネルギーは地球から資源を絞り尽くしている。限りある構築様式3の拡張の限界という現在地を踏まえて、次の都市形態とはどのような姿を成すだろうか?
― 1つの仮説として、都市、つまり生命が交錯し、諸活動や生活を行う場所は、物理的なバウンダリーから引き剥がれ、垂直な拡張から脱却し、バーチャルな空間と共にパラレル化するのではないだろうか?
バーチャルなパラレル世界において、生命・文化・経済が新たな形で非物質的に循環し、物理世界は無尽蔵な拡張から、限りある中での濃度の生成へと向かうのではないだろうか?
この辺りさらに深く掘っていきたい、というより、学科の教授はコンテキストから歴史の論理を体系化したわけだが、その次の様式がどのようになるのか?まで想像するエネルギーがないのだろう。故に、この辺りの更新は自分がとっていきたいと思った。
そしてMESONでの経験も半年を踏まえてちょうど区切りがつくので、デザインリサーチレポートというかなんらかのラーニングナレッジとして昇華させたいと思っている。
4.自分で自分を教育すること
学生、社会人という立場がここまで明確に上下関係として成立している国は日本くらいなのではないだろうか?と思ったりすることが多い。
「まだ学生だからね」「まだ授業なんて受けているのか」「社会人だから」「早く学生やめて起業できるでしょ?」(これが一番腹が立つ。起業だけが選択肢だと思っているのか?それはきっとビジネスというフィルターバブルに飲まれているということなのに)のようなラベリングでアイデンティティや社会的立ち位置を認識することに違和感を感じてる。
この違和感に対して、自分はもう少し柔軟な学び方、働き方、何かの生み出し方に挑戦できないかと思い自分の身で実験することでちょっとはアクティビズムになれるかと思うからでもある。事実、建築学科に行きつつフリーランスを開業できているし、その副業と学業のサイクルから生み出されるインスピレーションは何者にも変えがたい自分だけのアイデアの発想法にもなる。Life cycleがInspirationとCreativeのシステムなのだ。
故に、自分の教育プログラムやシステムを自分で設計できない理由はどこにあるのだろう?と疑いたくなることがしばしばあるし、学生だからねという立ち位置で会話されると無性に腹が立ってしまう。(あなたよりもできますよというエゴが多少なりともあるのは傲慢なのだから謙虚であらねばならないのは反省するべき点なのだけど。)
起業して数年でExitして、次のステップのために学び直しをしていたり、再び社会人で異なる分野の大学で学んでいる人はどんな感覚を持っているのだろうか。もしくはものづくりやクリエイティブしようとする人間はこの短期的思考に脳みそを侵された人間たちをどう見ているのか。
いずれにしても、この国は多様性と言いつつも、欧米からの輸入概念が故に多様なものを受け入れようと本当の努力はしないし、自分の行動は省みないのだろう。いずれにしても「学ぶ」ということは「面倒なこと」という概念が多くのパイを占めているこの国の雰囲気はどう考えても明るいとは言えないと思う。
その他
AKIRAを久々に見た。自分にとって名作なのかどうかをちゃんと考察したい。あとは連絡を返してなかったり、連絡をしないといけないのにできてなかったり、会おうと思っているのに忘れていたりする人がどんどん溜まっているので政策が終わったら一気に返さないといけない。
ARISEで色々と知り合いが増えたり、自分の考えていることを伝えたら共感してもらえたりともっと人に話して発信しないといけないなと改めて思っているのでそろそろ4年ぶりくらいにTwitterでもやろうかなとか考えている。あとはイベントの学びも言語化しなければいけないな。
そして、家庭環境があまり良くないので色々と自分でも頑張らないといけない。
来週も頑張ろう。
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